木村又三郎
木村 又三郎(きむら またさぶろう、1853年9月3日〈嘉永6年8月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月19日)は、明治から昭和初期にかけての株式仲買人である。愛知県名古屋市の人物で、家業の両替商を継ぎつつ名古屋株式取引所の株式仲買人となった。没後、事業を元に木村証券株式会社が設立されており、同社の創業者とされる。
経歴
[編集]嘉永6年8月1日(新暦:1853年9月3日)、木村小三吉の長男として生まれる[1]。父・小三吉(2代目。1833 - 1900年)は名古屋で両替商を営んでいた[2]。又三郎は初め刀剣商を開いていたが1886年(明治19年)より父の両替商を手伝う[3]。その中で強盗に遭い重傷を負うがその後復帰[3]。1892年(明治25年)4月家督を継いだ[1]。1893年(明治26年)に名古屋株式取引所が再興され翌年2月より取引が開始されると又三郎は同所の株式仲買人となった[4]。屋号は「銭小」である[1]。
以後、両替商・仲買商に従事しつつ複数の会社に関係した[3]。その一つ、郊外電車を運転する瀬戸電気鉄道(旧・瀬戸自動鉄道)では1902年(明治35年)6月監査役に就任[5]、1906年(明治39年)6月取締役に転じる[6]。また名古屋の電力会社名古屋電灯では1904年(明治37年)1月まず監査役に就任、1910年(明治43年)1月取締役へ転じ、1912年(大正元年)12月再び監査役就任[7]。さらに1914年(大正3年)12月取締役に復帰し、1918年(大正7年)12月まで務めた[7]。
電力業界では1918年9月、名古屋電灯の開発部門などが独立して木曽電気製鉄が設立(社長福澤桃介)されると同社の取締役にも就任[8]。1920年(大正9年)11月には合併で大同電力の取締役へ転じた[9]。大同電力取締役は1922年(大正11年)12月まで務めている[10]。
1921年(大正10年)2月、仲買事業を法人化して証券会社「株式会社木村商店」を設立、社長に就いた[11]。また1922年1月には名古屋株式取引所の相談役に推された[12]。1928年(昭和3年)発行の興信録には木村商店を経営しつつ両替商を営み、愛知県の多額納税者でもあった、とある[13]。ただし大正時代、第一次世界大戦のころから家業は婿養子の茂三郎(1884年生)が取り仕切っていたという[14]。
木村商店社長在任のまま1931年(昭和6年)3月19日に死去した[15]。77歳没。家業は婿養子の茂三郎が襲名(2代目木村又三郎に)の上で継承した[14]。
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録』第3版、人事興信所、1911年、き12-13頁。NDLJP:779813/501
- ^ 久野喬『木村証券百年覺え書』、木村証券、1993年、31-33頁
- ^ a b c 成瀬麟・土屋周太郎 編『大日本人物誌』、八紘社、1913年、き之部40頁。NDLJP:933863/870
- ^ 『木村証券百年覺え書』、39-42頁
- ^ 「商業登記 瀬戸自動鉄道株式会社登記事項変更」『官報』第5707号附録、1902年7月14日
- ^ 「商業登記 瀬戸自動鉄道株式会社登記事項変更」『官報』第6906号附録、1906年7月7日
- ^ a b 東邦電力名古屋電灯株式会社史編纂員 編『名古屋電燈株式會社史』、中部電力能力開発センター、1989年(原著1927年)、236-237頁
- ^ 大同製鋼 編『大同製鋼50年史』、大同製鋼、1967年、70-71頁
- ^ 大同電力社史編纂事務所 編『大同電力株式会社沿革史』、大同電力社史編纂事務所、1941年、45・53-54頁
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』、63頁
- ^ 名古屋毎日新聞社 編『愛知県会社総覧』昭和5年版、名古屋毎日新聞社、1929年、98頁
- ^ 野村浩司 編『株式会社名古屋株式取引所史』、名毎社、1943年、57頁
- ^ 人事興信所 編『人事興信録』第8版、1928年、キ28頁。NDLJP:1078684/554
- ^ a b 『木村証券百年覺え書』、59-60頁
- ^ 「木村又三郎氏逝去」『新愛知』1931年3月21日夕刊2頁