コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

木村重勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
木村 重勇
時代 江戸時代後期
生誕 享保19年(1734年
死没 文化3年10月20日1806年11月29日[1]
改名 前田孝綱/孝縄(初名)→前田重勇→木村重勇
別名 求馬、左門、七右衛門(通称)
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家斉
氏族 加賀前田氏木村氏
父母 父:前田利理、母:星野氏[1]
養父:木村信祐
兄弟 市五郎、安之丞、又五郎、喜和、鈴
知(稲生正熹室)、菊(本多直嗣室)
純(内藤彦右衛門室)、美代(保坂庄兵衛室)
前田利尚、岩(斉藤喜兵衛室)、重勇
前田武宣、元(保坂庄左衛門室)、能瀬能和
豊之丞、筒井正盈
小林正甫の娘、前田俊精の娘、
安生直之の娘、岡氏
芳心院徳川家斉側室)、娘(本多安信室)、重氏
テンプレートを表示

木村 重勇(きむら しげとし)は、江戸時代後期の旗本。はじめ孝綱。七日市藩6代藩主前田利理の五男。義父は木村信祐

生涯

[編集]

明和5年(1768年)11月晦日に家督を相続し、翌年3月19日に西丸小姓組に列した。安永8年(1779年)4月16日、本丸務。天明元年(1781年)5月26日、西丸勤務。天明6年(1786年)、本丸勤務に戻る。寛政8年(1796年)、幼少の徳川家慶の付属となり西丸勤務となる[2]

文化3年(1806年)、73歳で死去。法号は玄達院[1]

番役筋は両番筋で、西丸小姓組一番を勤めた。知行武蔵国相模国500石で、所属した寺は下谷法養寺(妙教山法養寺、日蓮宗)、四谷戒行寺(日蓮宗)だった。屋敷は、赤坂築地中之町に500坪の屋敷を構え、外御預地が同所に25坪あった。

娘の芳心院江戸幕府11代将軍徳川家斉に嫁ぎ、2人の間に生まれた松栄院は12代福井藩松平斉承に嫁いだ。

木村氏家紋は、丸に釘貫である。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『加賀藩史料 編外』(1933年)
  2. ^ 寛政重修諸家譜」巻第千三百