木村重勇
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享保19年(1734年) |
死没 | 文化3年10月20日(1806年11月29日)[1] |
改名 | 前田孝綱/孝縄(初名)→前田重勇→木村重勇 |
別名 | 求馬、左門、七右衛門(通称) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家斉 |
氏族 | 加賀前田氏→木村氏 |
父母 |
父:前田利理、母:星野氏[1] 養父:木村信祐 |
兄弟 |
市五郎、安之丞、又五郎、喜和、鈴 知(稲生正熹室)、菊(本多直嗣室) 純(内藤彦右衛門室)、美代(保坂庄兵衛室) 前田利尚、岩(斉藤喜兵衛室)、重勇 前田武宣、元(保坂庄左衛門室)、能瀬能和 豊之丞、筒井正盈 |
妻 |
小林正甫の娘、前田俊精の娘、 安生直之の娘、岡氏 |
子 | 芳心院(徳川家斉側室)、娘(本多安信室)、重氏 |
木村 重勇(きむら しげとし)は、江戸時代後期の旗本。はじめ孝綱。七日市藩6代藩主前田利理の五男。義父は木村信祐。
生涯
[編集]明和5年(1768年)11月晦日に家督を相続し、翌年3月19日に西丸小姓組に列した。安永8年(1779年)4月16日、本丸務。天明元年(1781年)5月26日、西丸勤務。天明6年(1786年)、本丸勤務に戻る。寛政8年(1796年)、幼少の徳川家慶の付属となり西丸勤務となる[2]。
文化3年(1806年)、73歳で死去。法号は玄達院[1]。
番役筋は両番筋で、西丸小姓組一番を勤めた。知行は武蔵国、相模国500石で、所属した寺は下谷法養寺(妙教山法養寺、日蓮宗)、四谷戒行寺(日蓮宗)だった。屋敷は、赤坂築地中之町に500坪の屋敷を構え、外御預地が同所に25坪あった。
娘の芳心院は江戸幕府11代将軍徳川家斉に嫁ぎ、2人の間に生まれた松栄院は12代福井藩主松平斉承に嫁いだ。