本圀寺の変
本圀寺の変 | |
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戦争: | |
年月日:永禄12年1月5日 | |
場所:本国寺 | |
結果:足利・織田方の勝利 | |
交戦勢力 | |
足利将軍家奉公衆、織田氏、若狭武田氏、畿内周辺の国衆、三好氏(義継派) | 三好三人衆 |
指導者・指揮官 | |
戦力 | |
2000(籠城軍のみ) | 1万 |
損害 | |
不明 | 不明 小笠原信定の討死 |
本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年1月5日(1569年1月31日)に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが下京郊外の六条本国寺(本國寺、江戸時代以降は本圀寺)に籠る室町幕府15代・将軍足利義昭を襲撃した事件とそれに続く合戦である。本圀寺合戦、六条合戦とも呼ばれる[1]。
経緯
[編集]永禄8年(1566年)5月の永禄の変で13代将軍足利義輝を討った三好三人衆であったが、その後三好家中の主導権を松永久秀と争い畿内において抗争を繰り広げ、権力を掌握するに至らなかった。三人衆は次の将軍として足利義栄を擁立した。対立する候補として義輝弟の足利義昭がいたが、三好三人衆の妨害により義昭は京に入ることができないままであった。永禄11年(1568年)2月、足利義栄が将軍に就任した。
この間に義昭は諸国の大名の助力を要請し、障壁となる紛争は積極的に和睦の仲介を行った。一方、幕府実務閣僚である奉行衆8名の内、6人までもが義昭に同行していたため、また、義栄自身が病(腫物)を患っており、京都に入れないままであったため、三好三人衆と義栄の幕府は将軍としての政務に支障をきたしていた。永禄9年(1566年)8月、尾張の織田信長が義昭を奉じて上洛を行うが、その途上で義昭上洛のための和睦中であったはずの美濃の斎藤龍興の襲撃に遭い、頓挫した。三好三人衆側の調略があったと推測される。義昭は若狭武田氏や越前の朝倉氏を頼り上洛を試みるがいずれも不調に終わる。一方、織田氏は翌年に美濃国を攻略し、永禄11年(1568年)秋に義昭を奉じて再度上洛の軍を興した。三人衆や三好康長・篠原長房らはこれを阻むことができず、さらに義昭・信長が9月30日に三好氏の拠点である摂津芥川山城に入城すると、相前後して四国阿波に撤退した。
義昭は芥川に滞在する間、降伏した池田勝正・伊丹親興らに摂津の、三好義継・畠山高政に河内の支配を認め、義昭を支持して三人衆に抗戦し続けた松永久秀には大和一国を「切り取り次第」とした。
摂津の陣を払った義昭軍は10月14日に六条本国寺に、信長軍は洛東の清水寺に入った。当時の本国寺は下京惣構西南隅の外側に位置し、東西2町南北6町の広大な寺域を有しており、天文法華の乱を経験して復興され、堀や土手を巡らせた要害と化していた。さらに信長も、義昭が着陣する前に土手の築造を家臣に指示している。本国寺は京の町衆の信仰を集める日蓮宗六条門流本山であり、最盛期には百以上の塔頭が建ち並び、数千の信者が住む寺内町が形成されていたという。また同寺は三好氏の保護を受けてきたが、檀那である松永久秀は義昭を奉じており、その点でも義昭の兵が駐屯するには格好の場所であった。
10月16日、義昭は将軍宣下を受けるためにわずかな供を連れて上京の細川京兆邸に移り、信長も細川被官宅に入った。三人衆が推戴した14代将軍義栄(義昭の従弟)はすでに9月30日に廃されており、さらに日時は諸説あるが9月から10月の間に義栄は死去していた。
こうして就任の障壁が無くなった義昭が、18日に新たな征夷大将軍に任じられ、22日に参内を果たした。そして畿内の一応の静謐と義昭の将軍就任を見届けた信長は26日に岐阜への帰国の途につき、義昭は29日に御座所を下京の本能寺に移した[2]。
合戦の経過
[編集]12月24日、松永久秀も織田信長への礼のため岐阜に下った。すると三好三人衆がこの隙を突いて動き出した。12月28日、美濃の旧国主斎藤龍興らを先鋒として、将軍方の三好義継家臣が守る堺南方の和泉家原城を攻め落とすと、三人衆は永禄12年(1569年)1月2日に堺を立って京へ向かい、4日に東福寺近辺に陣を置くと、まず京の将軍の詰城である勝軍地蔵山城をはじめとして、洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断った。
これに対し、義昭は本国寺に籠城する構えを取った。翌日、三人衆は1万余の軍勢(5千とも8千ともいう)で攻め寄せ昼頃に合戦となったが、将軍直臣に信長家臣・若狭武田氏家臣を合わせた幕府軍2千が必死に防戦に当たり、若狭衆の山県盛信・宇野弥七らの奮戦により、三好勢の先陣薬師寺貞春勢が寺内への進入を幾度も阻まれるなどしているうち日没に至ったため、三人衆側は兵を収めた[3]。将軍側は足軽衆など20人余りが討死したが、寄せ手の死者・負傷者も多数に上ったと伝わる。後年本能寺の変を引き起こす明智光秀が将軍側の一員として戦っており、この頃から歴史の表舞台に登場する。
この間に細川藤孝、北河内の三好義継、摂津の池田衆・伊丹衆などが将軍の救援として攻め上り、6日に七条の三好勢を三方から攻撃した。本国寺の籠城軍もこれに呼応して打って出た。不利を悟った三好勢は退却するものの将軍方に追いつかれ、桂川河畔で合戦に及んで敗北し、客将となっていた小笠原信定など多数が討死した。戦死者の数は、『信長公記』は首注文のある分として6名と「歴々の討取り」を記すだけだが、『細川両家記』では双方で8百余、『言継卿記』によれば千余、『足利季世記』によれば2千7百余、『永禄記』によれば数千という。
合戦後
[編集]1月6日、信長は岐阜で急報を受けた。折から大雪であったが、信長と松永久秀はただちに出立し、京に急行した。
1月10日に10騎足らずの供を連れて本国寺に到着したが、すでに三人衆は撤退していた。非常な寒さと急な出立により、配下の陣夫などに凍死者が数人出たという。
信長は本国寺の堅固な様子には満足しつつも、今後は「御構へ」すなわち防御力のある城郭としての機能を備えた将軍御所がなくてはならないと考え、上京と下京の中間にあった義輝の二条御所跡を拡張して新城とすることにした。東西3町南北3町規模の「武家御城」(二条御所)の造営は信長自らが総指揮を行い、大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。この新城は石垣を多用し、二重の堀と複数の出丸を備え、内郭には三重の天守、外郭には奉公衆ら家臣の屋敷を配した近世的城郭であったと考えられている。わずか70日ほどで造営されたため、新城の建物は本国寺の建築物を解体・移築したものが多く、さらに屏風や絵画などの什器までも同寺から運び込まれた。建築物などを奪われることについて、僧侶らは松永久秀に信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供と引き換えに免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかったという[4]。城は4月に完成し、将軍義昭が移座した。なお元亀3年(1572年)3月、義昭の強い勧めがあり信長は城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。
脚注
[編集]- ^ 『足利季世記』は本国寺合戦といい、『信長公記』は六条合戦を用いている。
- ^ ルイス・フロイスの『日本史』によれば、永禄の変で自害した義昭の母(慶寿院)の住居を本国寺が松永久秀の許可を得て寺内に移築していたため、義昭とその家臣は上洛すると直ちにここに住むと決め、翌年の三好三人衆の襲撃まで住み続けていたという。しかし『言継卿記』によれば、義昭は10月14日から16日まで本国寺にいた後細川邸に入り、10月末に本能寺に移った。12月14日には山科言継が本能寺の義昭のもとに参じた。12月21日に幕府奉行人は本能寺に対し「当寺は軍勢の寄宿について度々禁制を得ているが、今度御座所を移されたからには、今後はいよいよもって禁止する」旨の文書を出している。『永禄記』は、義昭が三人衆の襲撃前に本能寺では兵が入りきれないとして本国寺に移ったとしている。義昭自身が本能寺にいて不在の間は、そこに入れない在京幕府軍が本国寺に駐屯していたと思われる。義昭が本能寺を居所とした理由は、執務・対面の都合や、武装を解き少数の供のみで洛中に起居して「天下静謐」の実現を示そうとしたことなどが考えられる。
- ^ 『足利季世記』によれば、京中の法華宗僧侶らが「このまま攻め続けられては三好氏が代々崇敬してきた本圀寺の滅亡であり、将軍には他所に移ってもらうのでそこを攻めればよい」と諭したため、三人衆は金光寺(七条道場)に退いた。この説得は、翌日将軍側の後詰の勢が攻め上ってくるという注進を受けた上での策謀であったと伝わる。
- ^ フロイス『日本史』より。
参考文献
[編集]- 久野雅司『中世武士選書40 足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戎光祥出版、2017年。ISBN 978-4-86403-259-9。
- 黒嶋敏『[中世から近世へ]天下人と二人の将軍 信長と足利義輝・義昭』平凡社、2020年。ISBN 978-4-582-47748-1。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 天野忠幸「三好氏と戦国期の法華宗教団 : 永禄の規約をめぐって」『市大日本史』第13号、大阪市立大学日本史学会、2010年5月、33-53頁、ISSN 13484508、NAID 120006002947。
- 太田晴道「本能寺・本興寺文書の禁制について」(PDF)『興隆学林紀要』第二号、1988年、71-94頁。
- 京都市考古資料館 文化財講座第311回 連続講座「光秀と京」第1回 『特別展示「光秀と京~入京から本能寺の変~」』 (PDF, 3.4 MiB)