本城太華
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本城太華肖像(棟居五石筆) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永4年4月23日(1775年5月22日) |
死没 | 弘化元年10月29日(1844年12月8日) |
別名 |
諱:訥、信光 通称:一郎、栄蔵 字:伯毅 号:太華、太仲 |
墓所 | 大成寺(山口県周南市舞車町) |
主君 | 毛利就馴→広鎮→元蕃 |
藩 | 周防徳山藩 |
氏族 | 藤原姓本城氏 |
父母 | 父:本城紫巌、母:磯部三左衛門の娘 |
兄弟 | シゲ(江村忠韶室)、太華、直 |
妻 | 寿美(浅見巣雲の四女) |
子 |
暢、祐吉 養子:清 |
本城 太華(ほんじょう たいか)は、江戸時代後期の徳山藩士、儒学者。諱は訥。徳山藩の藩校・鳴鳳館で初代教授を務めた本城紫巌の長男で、太華も鳴鳳館の第4代教授を務める。家格は馬廻、禄高は50石。
生涯
[編集]安永4年(1775年)4月23日、徳山藩士・本城紫巌の長男として生まれる。太華の生まれた本城家は本城常光の流れをくむ。
寛政12年(1800年)、肥後国に遊学して熊本藩の高本紫溟の門下に入る。翌享和元年(1801年)には福岡藩の亀井南冥に師事し、享和2年(1802年)に徳山へ帰った。
享和3年(1803年)10月4日に父・紫巌が死去すると家督を相続し、徳山藩の藩校・鳴鳳館の句読師兼助訓導役に就任した。
文化3年(1806年)に江戸に勤め、文化4年(1807年)5月に帰国し、7月1日に訓導役に就任。文政3年(1820年)には助教に進んだ。
天保3年(1832年)に世子・毛利広篤(後の元蕃)の侍読となって元蕃の信頼を得、天保8年(1837年)に元蕃が藩主となって以後は大いに優遇された。また、天保5年(1834年)には死去した長沼采石の後任として、鳴鳳館の第4代教授役座取計に就任し、天保14年(1843年)12月まで務めた。太華は天性闊達・至誠にして、その学問は経詩に渡り、最も詩に長じた。また、40年間に渡って藩校に勤めて教学の刷新に力を注ぎ、後進の育成に努めて門下生から敬愛された。
弘化元年(1844年)10月29日、遺稿十数種を遺して死去。享年70。長男の暢は文政2年(1819年)に6歳で、次男の祐吉は天保7年(1836年)に19歳で死去していたため、姉のシゲと徳山藩士・江村正韶の次男である清が家督を相続した。