本多利友
表示
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 慶長2年(1597年) |
死没 | 延宝4年10月14日(1676年11月19日) |
別名 | 八十郎、彦兵衛 |
戒名 | 宗清 |
墓所 | 浅草乗清寺 |
幕府 | 江戸幕府大番、小普請 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光、家綱 |
氏族 | 清川忌寸[1]本多氏 |
父母 | 野条成宣 |
兄弟 | 利友、野条成元 |
子 | 利之、利隆 |
本多 利友(ほんだ としとも)は、江戸時代初期の武将、旗本。
生涯
[編集]清川忌寸の末裔を称する野条氏の出身で、本多忠政の烏帽子子となって本多氏を称する。実父は徳川家康に仕えて200石を領した。利友も家康に出仕し、慶長17年(1612年)からは徳川秀忠付きの小姓組となった。大坂の陣にはいずれも従軍し、慶長20年(1615年)夏の陣では天王寺の戦いで首級2を得る戦功により、下総猿島郡に300石を与えられた。寛永11年(1634年)徳川家光上洛の際に駿府城に入り、石垣の普請奉行となった。しかし同年、配下の一部が交代を訴えたために改易となり、仙台で蟄居した。慶安4年(1651年)赦免となり300俵を賜った。のち大番、小普請を歴任。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]- 本多流 - 弓道の流派。子孫が宗家となっている。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第1194