本多忠将
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永3年(1626年) |
死没 | 元禄5年11月11日(1692年12月8日) |
別名 | 修理(通称) |
官位 | 従五位下、対馬守、備前守 |
幕府 | 江戸幕府大身旗本(書院番頭) |
主君 | 徳川家綱→徳川綱吉 |
藩 |
三河西端領主 (旗本・8,000石→9,000石) |
氏族 | 本多彦八郎家 |
父母 | 父:本多忠相、母:稲垣重綱の娘 |
兄弟 | 本多忠将、中西忠良、本多忠清 |
妻 | 正室:藤井松平忠国の娘 |
子 |
本多忠能(長男)、娘(木下重俊室) 娘(跡部良顕室)、娘(中西孝元室) |
本多 忠将(ほんだ ただまさ)は、江戸時代前期の大身旗本。三河西端領の第2代領主。西端藩本多彦八郎家2代。
寛永3年(1626年)、初代領主・本多忠相の長男として生まれる。寛永10年(1634年)、弟の忠良とともに将軍・徳川家光に拝謁する。このとき、忠良は旗本・中西元朝の養子となっていたが、家督相続前に死去した。代わって、中西孝元が元朝の養子となった。後に忠将の娘の一人が、忠良の養女となって孝元に嫁いだ。万治元年(1658年)閏12月27日に従五位下・対馬守に叙位・任官する。寛文12年(1672年)、父の隠居により家督を継いで第2代領主となる。
延宝2年(1674年)、書院番頭に任じられた。天和2年(1682年)には父の代からの領地に上野国新田郡・下野国安蘇郡において1000石を加増され、合計9000石を領する。貞享3年(1682年)に職を辞任している。
元禄5年(1692年)11月11日に死去。享年67。長男の忠能が家督を継いだ。
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