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本所映画館

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本所映画館
Honjo Eigakan
本所映画館(1967年)
情報
正式名称 本所映画館
完成 1937年12月3日
開館 1963年7月15日
閉館 1971年5月26日
収容人員 1166人
用途 映画館
所在地 東京都墨田区江東橋4-27-4 江東楽天地
特記事項 完成年月日は初代本所映画館の開業日。
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本所映画館(ほんじょえいがかん)は、東京都墨田区江東橋4-27-4 江東楽天地にあった映画館

歴史

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開館

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1937年の開館時

1937年(昭和12年)2月27日、株式会社東京宝塚劇場(現・東宝株式会社)社長の小林一三によって株式会社江東楽天地(現在の株式会社東京楽天地)が創設された[1]。株式会社江東楽天地は汽車製造合資会社東京支店(現在の川崎重工業株式会社)工場跡地に総合レジャー施設として江東楽天地を建設。同年11月27日には本所映画館が竣工し、12月3日に江東劇場と合わせて開館した[1][2]

本所映画館と江東劇場はいずれも定員1500人の大劇場であり[1]、本所映画館は映画専門館、江東劇場は実演と映画の双方を行う劇場だった[3]。建物の施工は竹中工務店[1]。屋上には地球を模した看板があり、その左手には富士山が、右手にはニューヨークの摩天楼の装飾があった[4]。オープニング作品は大河内傳次郎主演作『血路』、東宝作品『愛国六人娘』、香島ラッキー・御園セブンの漫才であり[5]、12月5日から一般の興行が行われている[1]

1938年(昭和13年)6月24日には洋画上映館となり、1940年(昭和15年)4月18日には日活封切館となった[5]。映画産業の戦時統制によって1942年(昭和17年)に映画配給社が設立されると、本所映画館は白系封切館に区分された。1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲に遭い、隣接する江東劇場は空襲で焼失したものの、本所映画館は焼失を免れた[5]

戦後

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初のシネマスコープ作品である『聖衣

1953年(昭和28年)10月にはヴィクター・フレミング監督作『風と共に去りぬ』で興行収入の新記録を樹立した[5]。1954年(昭和29年)5月22日には横48尺×縦19尺の大スクリーンを持つシネマスコープ映写設備を設置し、『聖衣』でシネマスコープ作品が初上映された[5]

1963年(昭和38年)7月15日には新たな本所映画館が入る本映ビルが完成した[6]。同年9月10日には本映ビルの屋上に楽天地ゴルフガーデンが開場し、1965年(昭和40年)3月9日には本映ビルの屋上にネオン塔が設置された[6]。1964年(昭和39年)の『映画便覧 1964』によると本所映画館は定員1361を有する映画館であり、TY紅系の洋画を上映していた[7]

1970年(昭和45年)の『映画館名簿 1970』によると本所映画館は定員1166を有する映画館であり、TY白系の洋画を上映していた[8]。1971年(昭和46年)5月26日をもって閉館し、跡地は改装されてボウリング場の楽天地ヤングボウルとなった[2]。改装中の同年6月8日には2階客席付近から出火する火事があった[9]

楽天地ビルの映画館

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跡地にある楽天地ビル

1983年(昭和58年)11月1日には4スクリーンの映画館を有する楽天地ビルが部分開業したが、うち1スクリーンには12年前に閉館した本所映画館の名が付けられた。1999年(平成11年)7月10日には楽天地ビル内の映画館が錦糸町シネマ8楽天地としてまとめられ、再び本所映画館の名が消えた。

脚注

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  1. ^ a b c d e 江東楽天地二十年史編纂委員会『江東楽天地二十年史』江東楽天地二十年史編纂委員会、1957年、年表
  2. ^ a b 『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年、p.91
  3. ^ 小島惟孝(監修)『目で見る 墨田区の100年』郷土出版社、2007年、p.121
  4. ^ 小島惟孝(監修)『目で見る 墨田区の100年』郷土出版社、2007年、p.122
  5. ^ a b c d e 江東楽天地二十年史編纂委員会『江東楽天地二十年史』江東楽天地二十年史編纂委員会、1957年
  6. ^ a b 「東京楽天地80年史」制作事務局『東京楽天地80年史』株式会社東京楽天地、2017年、年表
  7. ^ 『映画便覧 1964』時事通信社、1964年
  8. ^ 『映画館名簿 1970』時事通信社、1970年
  9. ^ 「改装中の本所映画館で火事」『毎日新聞』1971年6月9日