本田正信
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本田 正信(ほんだ まさのぶ、1901年 - 没年不明)は、日本の教育者。山口県出身。
経歴
[編集]1901年山口県。台湾総督府台北師範学校(現在の台北教育大学)を卒業後、1924年から2年間台北師範学校附属小学校で訓導、1926年に東京滝野川尋常高等小学校(現在の北区立滝野川小学校)に転出、1926‐1938年の12年間在任。滝野川尋常高等小学校を転出後、1938年4月からは深川尋常小学校(現在の江東区深川小学校)に赴任。1947年には地元山口県の美祢市立豊田前中学校(2019年度美祢市立大嶺中学校に統合)の第三代校長(1950‐1955年)をつとめ、校歌の作詞者として名を残している[1]。
本田は1930年に論文が『小学校』[2]に掲載されて以降、1945年までに『教育論叢』[3]、『郷土研究』[4]を中心に60本を超える論文が教育雑誌上に発表されており、受持学級の実践記録に関する論文が数多く残っている。その他にも『母への教育報告』、『躾物語』、『やさしく解いた臣民の道』など著書は多数に及び、台湾の教育雑誌である『第一教育』[5]にも、複数の論文を寄稿している。
著作
[編集]- 瀬川頼太郎・本田正信、『母への教育報告』、学芸社、1936年
- 本田正信、『躾物語』、三井出版商会、1942年
- 教学局編、本田正信解説『やさしく解いた臣民の道』研又書院、1942年
脚注
[編集]- ^ 美祢市立豊田前中学校『50年のあゆみ』
- ^ 『小学校』は教育学者であった大瀬甚太郎と、大瀬が1901年に立ち上げた教育学術研究会によって創刊された雑誌である。
- ^ 『教育論叢』は1919年9月号創刊‐1941年46巻3号で終刊した教育雑誌。
- ^ 『郷土教育』は創刊当時『郷土』という名で1930年から1931年4月6号まで刊行された。その後1931年5月から『郷土科学』として7号を発刊。1932年4月18号からは『郷土教育』と再び名前を変更、1934年に43号廃刊するまで続いた。
- ^ 『第一教育』は台湾子供世界社より1923年9月に創刊された。 代表は吉川精馬。彼が1925年に亡くなると、父である吉川利一が代表を務めた。1935年6月廃刊。全14巻4号。
参考文献
[編集]- 鈴木そよ子、「公立小学校における大正新教育:東京市滝野川尋常高等小学校の「綜合教育」」、『国際経営論集』、14号、1997年、133-152頁
- 吉村敏之、「雑誌『教育論叢』における事例研究:学級の事実から理論を創る」、『宮城教育大学紀要』、42巻、2007年、217-227頁
- 吉村敏之、「雑誌『教育論叢』における子ども研究:教師による学級集団の観察と記録」、『宮城教育大学紀要』、48巻、2013年、281-293頁
- 足名笙花、「瀧野川尋常高等小学校における大正新教育の実践について‐本田正信の教育思想を中心に‐」、『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2022年、7‐34頁
- 足名笙花、「本田正信『母への教育報告』『躾物語』から見る公立小学校の大正新教育」 、『紫苑』(19)、2022年、97-118頁
- 足名笙花、「瀬川頼太郎と大正新教育」、『紫苑』(20)、2023年、37-58頁