本田親清
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本田 親清(ほんだ ちかきよ、1877年(明治10年)12月12日[1][2][3] - 1922年(大正11年)5月18日[4])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]鹿児島県[4]川辺郡勝目郷中山田村(川辺郡勝目村[5]中山田[3]、川辺町を経て現南九州市川辺町中山田)で、旧薩摩藩士・本田杏介の長男として生まれる[2]。鉱山業、貿易商を営む[2][3][4][6][注釈 1]。
大隈重信の支持を受け、田江泰造、山瀬幸人らの支援により、1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に鳥取県郡部から無所属で出馬して当選し[2][6][7]、その後公正会に所属し衆議院議員に1期在任した[4][5]。いわゆる落下傘候補で、選挙期間中、地元にほとんど顔を見せることはなかった[6]。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙に鹿児島県郡部から立候補したが落選した[8]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 学歴は『現代日本の政治家』公友倶楽部16頁によると、旧制中学校、旧制高等学校で学んだとしているが詳細は不明。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。