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朱 友徽(しゅ ゆうき、? - 923年)は、後梁の太祖朱全忠の七男[1]。
後梁の建国後、建王に封じられた[2]。
923年、後唐の侵攻の迫るなか、末帝朱友貞に叛乱を企んだと疑われ、兄の賀王朱友雍とともに殺された[3]。
- ^ 新五代史「太祖二兄:曰全昱,曰存。八子:長曰友裕,次曰友珪、友璋、友貞、友雍、友徽、友孜,其一養子曰友文。」
- ^ 新五代史「開平元年五月乙酉,封友文為博王、友珪郢王、友璋福王、友貞均王、友雍賀王、友徽建王。友裕前即位卒,追封郴王,而康王友孜,末帝即位封。」
- ^ 新五代史「友璋初為壽州團練使、押左右番殿直、監豐德庫,友珪時,為鄆州留後,末帝時,為忠武軍節度使,徙鎮武寧,及友雍、友徽皆不知其所終。」