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朱基瑢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国独立運動家教育者政治家制憲国会議員[1][2]。氏名の漢字表記は朱基容[3]朱基溶[4]朱基鎔[5]などもある。

本貫新安朱氏[6]牧師朱基徹は従弟[7]、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父[8]

経歴

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慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身[9]。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。1927年に五山中学校に行って教務主任を務め、1928年に培花女子中学校朝鮮語版の教員を経て、1932年9月1日に五山中学校の校長に赴任したが、1942年には日本当局により強制的に辞任させられた。その後は江原道鉄原郡に行って農場を経営し、解放後に再び社会活動を展開しながら、平安北道治安維持会副委員長を務めた[2]。1945年に曺晩植を中心に創立された朝鮮民主党の平安北道党委員長、ソウル市党副委員長などの幹部を務め、続いて五山中学校の校長にも招聘されたが、共産主義政策に不満を抱いて越南した[1][8][2]

その後は南朝鮮過度政府文教部普通教育局長を経て、1948年5月31日の初代総選挙に昌原郡選挙区から無所属で出馬し当選し、初代国会文教社会分科委員長に選出された。国会議員在職中は教育分野の根幹となる「教育法」の制定について関係者と数回の審議を重ねて、1949年12月に「教育法」の骨子案が公布された。その後は再び中央教育委員会委員、大韓教育連合会事務局長、五山学校理事などを歴任し、1953年に再び五山中高等学校の校長に就任した。1961年に定年退職後、1962年からは第6代五山学校財団理事長に就任した[1][8][2]

1966年5月8日に老衰により延世大学校附属病院で死去。享年70[10]

脚注

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  1. ^ a b c 주기용(朱基瑢)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年12月13日閲覧。
  2. ^ a b c d 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年12月13日閲覧。
  3. ^ 공훈전자사료관 - 정운조”. e-gonghun.mpva.go.kr. 2023年12月13日閲覧。
  4. ^ 3) 경상도 지방의 3·1운동”. 한국사 데이터베이스. 한민족독립운동사 3권 3·1 운동. 2023年12月13日閲覧。
  5. ^ 주기용 (朱基鎔)”. 한국사 데이터베이스. 한국근현대인물자료. 2023年12月13日閲覧。
  6. ^ (52)신안 주씨(新安朱氏)-151,227명” (朝鮮語). 금융소비자뉴스 (2014年9月11日). 2023年12月13日閲覧。
  7. ^ [역사속 부산사람] ⑪ 주기철 (1897~1944)” (朝鮮語). 부산일보 (2003年7月2日). 2023年12月13日閲覧。
  8. ^ a b c 주기용 - 디지털창원문화대전”. changwon.grandculture.net. 2023年12月13日閲覧。
  9. ^ [진해문화원 - 인물] 문화로 행복한 진해문화원입니다.” (朝鮮語). 진해문화원. 2023年12月13日閲覧。
  10. ^ 前五山中校長(전오산중교장) 朱基瑢氏別世(주기용씨별세)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1966年5月11日). 2023年12月13日閲覧。