朱徽妍
表示
朱徽妍 | |
---|---|
続柄 | 泰昌帝第六皇女 |
全名 | 朱徽妍 |
称号 | 寧徳長公主 |
身位 | 長公主 |
出生 |
万暦38年(1610年) |
配偶者 | 劉有福 |
父親 | 泰昌帝 |
母親 | 傅氏 |
朱 徽妍(しゅ きげん、1610年 - ?)は、明の泰昌帝の六女。母は傅懿妃。
万暦38年(1610年)に、皇太子朱常洛(のちの泰昌帝)と選侍(皇子の側室)傅氏の娘として生まれた。万暦48年または泰昌元年(1620年)、泰昌帝は即位の翌月に崩じ、子供たちを王や公主に封じることもできなかった。異母兄の天啓帝が代わって即位すると、朱徽妍は母や妹たちと共に別宮へ追放されたが、後に呼び戻され、また寧徳長公主に封じられた。天啓6年(1626年)、劉有福に降嫁した。
崇禎17年(1644年)3月、北京が李自成軍によって陥落すると、夫と共に戦火を逃れて避難した。その後は清代初めまで、質素な生活を送った。
参考文献
[編集]- 『明史』 - 列伝第九 公主伝
- 『明熹宗実録』
- 『蕭史青門曲』 清·談遷《北游録紀郵》(卷上):「壬辰。午過呉太史。讀近詩。其簫史青門曲曰。簫史青門望明月、碧鸞尾埽銀河闊。好畤池台白草荒、扶風邸舍黄塵没。當年故后婕妤家、槐市無人噪晩鴉。卻憶沁園公主第、春鶯啼煞上陽花。嗚呼先皇寡兄弟、天家貴主稱同氣。奉車都尉誰最賢、鞏公才地如王濟。被服依然儒者風、讀書妙得公卿譽。大内傾宮嫁楽安、光宗少女宜加意。正值官家從代來、王姫礼數從優異。先是朝廷啓未央、天人寧徳降劉郎。道路爭傳長公主。夫婿豪華勢莫當。百兩車来填紫陌、千金榼送出雕房。紅窗小阮調鸚鵡、翠管繁箏叫鳳凰。白首傅璣阿母飾、綠鞲大袖騎奴裝。灼灼夭桃共穠李、兩家姊妹驕紈綺。九子鸞雛斗玉釵、釵工百萬恣來取。屋裏熏爐滃若雲、門前鈿轂流如水。外家肺腑數尊親、神廟榮昌主尚存、話到孝純能識面,抱來太子輒呼名。六宮都講家人礼、四節頻加戚里恩。同謝面脂龍徳殿、共乘油壁月華門。萬事豪華有消歇、楽安一病音容没。莞蒻桃笙朝露空、溫明秘器空堂設。玉房珍玩宮中賜、遺言上獻依常制。卻添駙馬不勝情、至尊覽表為流涕。金冊珠衣進太妃、鏡奩鈿合還夫婿。此時同產更無人、寧徳來朝笑語真。憂及四方宵旰甚、自家兄妹話艱辛。明年鐵騎燒宮闕、君后倉皇相訣絶。仙人楼上看灰飛、織女橋邊聽流血。慷慨難從鞏公死、乱離怕與劉郎別。扶携夫婦出兵間、改朔移朝至今活。粉碓脂田縣吏收、粧楼舞閣豪家奪。曾見天街羨璧人、今朝破帽迎風雪。賣珠易米反柴門,貴主淒涼向誰說。苦憶先皇涕漪漣、長平嬌小最堪憐。青萍血碧他生果、紫玉魂歸異代緣。盡嘆周郎曾入選、俄驚秦女遽登仙。青青寒食東風柳、彰義門邊冷墓田。昨夜西窗仍夢見、楽安小妹重懽宴。先后傳呼喚捲簾、貴妃笑折櫻桃倦。玉階露冷出宮門、御溝春水流花片。花落回頭往事非,更殘燈灺淚沾衣。休言傅粉何平叔,莫見焚香衛少兒。何處笙歌臨大道、誰家陵墓對斜暉。只看天上瓊樓夜、烏鵲年年他自飛。」