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朴鐘圭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴鍾圭から転送)
朴鐘圭
1966年
各種表記
ハングル 박종규
漢字 朴鐘圭
発音 パク・チョンギュ
日本語読み: ぼく しょうけい
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朴 鐘圭(パク・チョンギュ[1][2] 、ぼく しょうけい、朝鮮語: 박종규1930年5月28日 - 1985年12月3日)は、大韓民国政治家。第2代大統領警護室長、第10代韓国国会議員[3]。漢字表記は朴鍾圭とも[4]

経歴

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日本統治時代の慶尚南道昌原郡に生まれた。幼少期から家族と共に東京で生活し、光復後に帰国した。建国大学校政治・外交学科卒、延世大学校行政大学院を修了した[4]

1947年に国防警備隊に入隊し、下士官として服務中、陸軍総合行政学校第5期に入校し、陸軍少尉に任官された。その後、米陸軍歩兵学校空挺学校を経て陸軍本部情報局、合参議長専属副官などを歴任した[4]。陸軍本部情報局時代に朴正熙金鍾泌などと共に勤務した縁で、5・16軍事クーデターの核心要員として参加し、朴正熙の警護、空輸団出動、国務総理張勉の逮捕などの任務を担当した。クーデター後に朴正熙の警護責任者を任され、国家再建最高会議の発足と同時に警護隊長を務めた[4]

1963年の第三共和国発足と共に陸軍大佐として予備役に編入し、大統領府警護室次長を経て1964年5月17日から第2代大統領警護室長を務めていたが、文世光事件で当時大統領を務めていた朴正煕の妻である陸英修が射殺されたことの責任を負って1974年8月15日に辞任した[5]。警護室長在任中に学校法人慶南学院を設立し慶南大学校理事長を務めたほか、退任後に大韓射撃連盟会長、アジア射撃連盟会長を経て、1978年12月12日に実施された第10代総選挙民主共和党の公認で立候補して当選し、国会議員となった。在任中に大韓体育会会長、大韓オリンピック委員会委員長、アジア競技団体総連盟会長を務めた。1980年の新軍部による戒厳後に77億ウォンの不正蓄財の疑いで調査を受けて、政界から引退した[4][6]。退任後に国際オリンピック委員会委員を務めたが、委員任期中の1985年12月3日に肝癌により55歳で亡くなった[7]

親族

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エピソード

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ピストル朴(피스톨 박)の異名で知られており[8]、朴正煕に不用意に近づく人物に無条件に拳銃を撃つ人であった。大統領警護室長を務めていた全盛期には長官であろう道知事であろうと朴が暴行を加えたことがあり、元文化公報部長官の洪鍾哲朝鮮語版は彼のピストルで足首に貫通傷を負った。また、元全羅北道知事李春成たばこをくわえていた朴正煕にライターで火をつけようとしたが、ライターの火が大きすぎたため、朴は「閣下を驚かせた」という理由で李を殴った[9]。その行為には朴正煕も眉を顰めており、時折朴に対して叱責したという。

脚注

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  1. ^ 重光に三度目の正直、「ロッテ」財閥化の端緒となるホテル・デパートを続々開業”. ダイヤモンド・オンライン (2021年4月21日). 2022年7月4日閲覧。
  2. ^ 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 (2021年12月14日). “偵察総局大佐出身の脱北者「青瓦台勤務の北の工作員は冷暖房エンジニアだった」”. www.chosunonline.com. 2022年7月4日閲覧。
  3. ^ 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年5月20日閲覧。
  4. ^ a b c d e 박종규(朴鍾圭)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月16日閲覧。
  5. ^ 朴鐘圭(박종규) 警護室長(경호실장) 辭表(사표)수리”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1974年8月21日). 2022年7月3日閲覧。
  6. ^ 朴鐘圭(박종규)씨 사퇴 慶南大(경남대) 이사장 朴在圭(박재규)씨 선임”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1980年3月26日). 2022年5月20日閲覧。
  7. ^ 國際(국제)올림픽委(위) 위원 朴鐘圭(박종규)씨 별세”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1985年12月3日). 2022年5月20日閲覧。
  8. ^ 이정훈 (2005年4月27日). ““1호 동지를 사수하라” 김정일 서울답방 2박3일 총력 경호작전”. 新東亜. p. 2. 2022年10月25日閲覧。
  9. ^ [사진은 말한다] 박종규 경호실장, 1979년 3월 27일” (朝鮮語). 매일경제 (2020年5月14日). 2023年10月15日閲覧。