杉原重玄
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永14年(1637年) |
死没 | 承応2年10月14日(1653年12月3日) |
改名 | 竹中重基(初名)、杉原重玄 |
別名 | 帯刀(通称) |
戒名 | 光現院殿円芳秀徹大居士 |
墓所 | 東京都港区三田の林泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 但馬豊岡藩主 |
氏族 | 竹中氏→杉原氏 |
父母 |
父:竹中重常、母:杉原長房の娘 養父:杉原重長 |
兄弟 | 竹中重高、竹中重之、重玄、井上十郞兵衛、加藤重貞、竹中重紀 |
妻 | 正室:杉原重長の娘 |
杉原 重玄(すぎはら しげはる)は、但馬国豊岡藩の第3代藩主。竹中半兵衛の曾孫にあたる。
生涯
[編集]寛永14年(1637年)、交代寄合・竹中重常(竹中重門の長男)の3男として生まれる。
母方の伯父にあたる先代藩主・杉原重長が正保元年(1644年)10月28日に死去した後、所領を1万石に減らされた上で正保2年(1645年)閏5月26日に末期養子となり、家督を継いだ。末期養子が解禁されていなかった時期であったが、長房・重長の2代における忠勤が考慮されて重玄の家督相続が認められた。藩主就任後の正保4年(1647年)、江戸城石垣普請助役を勤める。
承応2年(1653年)10月14日に死去した。享年17。嗣子が無かったため杉原氏は断絶し、改易されて豊岡は天領となった。この時、豊岡城も廃城とされた。養父・重長の従祖父の義正(杉原家次の弟)が始祖の庶流が旗本(杉原長氏など)として、家名は存続している。