杉山神社 (横浜市港北区新吉田町)
杉山神社 | |
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所在地 | 神奈川県横浜市港北区新吉田町4509 |
位置 | 北緯35度32分46.33秒 東経139度36分29.38秒 / 北緯35.5462028度 東経139.6081611度座標: 北緯35度32分46.33秒 東経139度36分29.38秒 / 北緯35.5462028度 東経139.6081611度 |
主祭神 | 五十猛命 |
社格等 | 式内小社、旧郷社 |
例祭 | 10月9日 |
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は神奈川県横浜市港北区の神社。旧新田村吉田の郷社で、横浜市内唯一かつ旧武蔵国の式内社である「杉山神社」の有力論社の一つとされている。
祭神
[編集]由緒・歴史
[編集]房総半島より移ってきた一族が祀ったとする説がある[1]。創建時期は不明であるが、『武蔵式社記』では「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」、文化・文政期(1804年〜1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」とそれぞれ記されている[2] [3]。なお、当神社の神宝や由緒書等は別当寺であった正福寺により保管されていたが、同寺院の火災の際に尽く焼失したと伝えられている[4]。
1873年(明治6年)には当時の都筑郡吉田村(1889年の合併により新田村となる)において郷社に列格している[2]。
式内社の論社として
[編集]当社を式内社とする説は『新編武蔵風土記稿』が編纂された文化・文政期以前より存在するが、幕末の神道家であった斎藤義彦や郷土史家の菱沼勇[5]による『武蔵国式内社の歴史地理』(1966年出版、1972年に『武蔵の古社』として改著)などではこの説を有力としている[6]。菱沼勇はこの地域に「杉山」という小名があることや、この地域の旧家で当神社とも関わりがある森家には千年以上の歴史を有するという口伝があること、さらに森家の背後にある丘陵にはかつて大きな勢力を誇った土豪がいた証にもなる古墳の「浅間塚」があることなどを根拠に挙げている。また、『港北区史』では森家の「森」は鎮守の森を由来にしているといわれ、同家は地元で「杉山さま」と呼ばれていることが記されている[7]。この他にも、近くの早淵三丁目には「北川表の上遺跡」および「北川貝塚」があり、『新編武蔵風土記稿』における「都筑郡吉田村に大きな貝塚があった」との記載[3]や地元において「貝塚畑」という呼称が残っているなど、この地域周辺における遺跡の存在は古くから知られていた[4]。
当社も他の多くの論社と同じく、鶴見川水系(早渕川)沿いの高台に鎮座している。
境内社
[編集]祭事・年中行事
[編集]その他
[編集]当社には神職が常駐しておらず、保土ケ谷区瀬戸ケ谷町にある八幡社の兼務社となっている。
所在地・交通
[編集]神奈川県横浜市港北区新吉田町4509
- 横浜市営地下鉄グリーンライン「東山田駅」より徒歩15〜20分
ギャラリー
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正面(南側)の鳥居
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北西側の鳥居
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境内の稲荷様と天神様
脚注
[編集]- ^ a b c 杉山神社(神奈川県神社庁)
- ^ a b 新編武蔵風土記稿吉田村.
- ^ a b 武蔵国都筑郡唯一の式内社杉山神社を推理(津軽古代王国)
- ^ 菱沼 勇(歴史が眠る多磨霊園)
- ^ 港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北 2003年4月号):第52回 杉山神社の有力候補(公益財団法人 大倉精神文化研究所 )
- ^ 港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北 2003年5月号):第53回 区内の杉山神社(公益財団法人 大倉精神文化研究所 )
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 杉山神社 - 横浜市を中心に数十社分布する。当社の他には以下の有力論社がある。
- 杉山神社 (横浜市緑区西八朔町) - 武州六大明神の一つで、くらやみ祭(武蔵国国府祭)にも参列している。
- 杉山神社 (横浜市都筑区茅ケ崎中央)
- 杉山神社 (横浜市都筑区中川)
- 鶴見神社 (横浜市)
外部リンク
[編集]- 杉山神社(神奈川県神社庁)
- 杉山神社 (新吉田町)(あかね台.net)
- 武蔵国都筑郡唯一の式内社杉山神社を推理 - ウェイバックマシン(2014年8月10日アーカイブ分)(津軽古代王国) - 産鉄民族の末裔により祀られたする考察。