コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

李宝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 宝(り ほう、? - 26年)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将。更始帝(劉玄)配下の武将で、柱功侯。主に漢中三輔を活動範囲としていた。

事跡

[編集]

延岑との攻防戦

[編集]
姓名 李宝
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 26年建武2年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 漢中相〔劉嘉〕
爵位・号等 柱功侯〔更始〕
陣営・所属等 更始帝劉嘉光武帝
家族・一族 〔不詳〕

更始2年(24年)秋、更始帝の命令により、益州刺史張忠と共に1万人余りの軍勢を率いて蜀と漢中の平定に向かう。しかし、蜀で台頭していた公孫述は、弟の公孫恢に迎撃を命じ、李宝らは綿竹で大敗して逃走した。その後の動向はしばらく不詳となるが、主に漢中に割拠していたと見られる。

建武2年(26年)、更始帝に降っていた延岑が漢中で反乱し、更始政権の漢中王劉嘉を南鄭(漢中郡)から駆逐して、同年2月、武安王を自称した。延岑が劉嘉を追撃して武都郡に入ってくると、李宝はこれを迎撃して破り、延岑は天水郡へ逃走している。空いた南鄭城には、公孫述の部将侯丹が入り、李宝は劉嘉の相となって南鄭を攻撃したが、攻略はならず、劉嘉・李宝は河池・下弁(武都郡)に駐屯した。

以後、李宝は劉嘉と共に延岑と激しく争い、延岑が散関から三輔に入ると、劉嘉・李宝もこれを追った。劉嘉・李宝は陳倉(右扶風。長安の西方)で延岑を撃破し、延岑は杜陵(京兆尹。長安の南東)に退いてここを根拠地とした。一方、劉嘉・李宝は長安の北西部に進んだところ、赤眉軍廖湛(元は更始政権の穣王)の率いる18万の大軍に出くわし、谷口(左馮翊)で廖湛を撃破して、劉嘉自ら廖湛を斬り、その北の雲陽(左馮翊)に駐屯した。

赤眉軍撃破と最期

[編集]

まもなく何らかの事情で、劉嘉・李宝は延岑との間で和解が成立し、長安を占拠していた赤眉軍に共同で対処している。建武2年9月、逄安が赤眉軍の主力部隊を率いて杜陵の延岑を攻撃してくると、李宝も延岑を救援して逄安と戦った。緒戦は逄安優勢で、李宝はこれにいったん降伏している。しかし、この降伏は偽装で、逄安が延岑を破って帰陣すると、幟旗が李宝のものに替っており、これを本陣が奪われたと判断した赤眉軍は潰走し、谷底に雪崩れ込んで10万人余りが死すという壊滅的打撃を受けている。

その後、光武帝(劉秀)の大司徒鄧禹の西征を聞きつけた李宝は、兵を擁して守りを固め、劉嘉に成り行きを見極めるべきであると進言した。しかし劉嘉は、鄧禹からの光武帝の伝言や義兄の来歙の進言を聞き入れ、鄧禹に降伏した。

李宝も已む無く劉嘉に従って降伏したが、鄧禹は李宝の態度が傲慢無礼であるとして、これを誅殺してしまう。しかし、鄧禹のこの行動の代償は大きかった。李宝の弟や旧部下が復仇のために蜂起して、鄧禹の腹心耿訢を殺害してしまったのである。すなわち、食糧不足や部下の離反により傷ついていた鄧禹の威信は、さらに地に墜ちる結果となった。

参考文献

[編集]
  • 後漢書』列伝4順陽懐侯嘉伝
  • 同列伝1劉盆子伝
  • 同列伝3公孫述伝
  • 同列伝6鄧禹伝

関連項目

[編集]