李密翳
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李 密翳(り みつえい[1]、生没年不詳[1])は、奈良時代の人物。『続日本紀』に名前の見える唯一[1]の波斯人(ペルシア人)。
経歴
[編集]聖武朝の天平8年(736年)8月に日本に帰国した第10次遣唐使の副使[2]・中臣名代が「唐人三人、波斯人一人」を連れて聖武天皇に謁見した[3][4]。同年11月には名代ら遣唐使節への叙位が行われたが、李密翳や唐人の皇甫東朝らにもそれぞれ位階が与えられた[3][5]。
李密翳についての『続日本紀』の記載はこれのみであるため、その後の消息やどのような人物であったかは明らかでない。森公章は、技術の伝授に当たった工匠ではないかという見方を有力なものとして紹介している[1]。この他、医師[1]・楽人[1]・幻術師[1]・商人[1]・ゾロアスター教の司祭[1]といった説もある。
孝謙朝の天平神護元年(765年)に大学員外大属を務めていた破斯清道は、「破斯(波斯)」を名に持つことからペルシアとの関連が取り沙汰されている。奈良文化財研究所の渡辺晃宏は、破斯清道は李密翳本人か、家族や従者だった可能性を指摘している[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 「李密翳」『朝日日本歴史人物事典』 。コトバンクより2020年7月11日閲覧。
- ^ 矢野建一「遣唐使と来日「唐人」 : 皇甫東朝を中心として」『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』第6巻、専修大学社会知性開発研究センター、2012年3月、129-141頁、CRID 1390572174779564160、doi:10.34360/00008648、2024年3月25日閲覧。
- ^ a b “平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家(1/2)”. 産経新聞. (2016年10月5日) 2016年10月5日閲覧。
- ^ 『続日本紀』天平8年8月23日条
- ^ 『続日本紀』天平8年11月3日条
- ^ “平城宮にペルシャ人役人 - 名前記した木簡が出土/平城宮跡 8世紀中期”. 奈良新聞. (2016年10月5日) 2016年10月8日閲覧。
関連項目
[編集]- 眩人 - 李密翳の記述から想像を膨らませた松本清張の歴史小説。
- 如宝(安如宝) - 鑑真に同行して来日した僧(来日時は俗人)。胡国人と記録されている。
- 有史時代における各国の出身人物による最初期の来日の年表