李希烈
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李希烈 | |
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楚 | |
皇帝 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 782年 - 786年 |
都城 | 大梁府 |
姓・諱 | 李希烈 |
生年 | 不詳 |
没年 | 貞元2年(786年) |
李 希烈(り きれつ、? - 786年)は、中国・唐の節度使。燕州遼西県の出身。淮南西道節度使の李忠臣(董秦)の族子。唐に対して反乱を起こした。
生涯
[編集]安禄山の乱に董秦(後の李忠臣)に従い転戦し、李忠臣の部将となる。やがて李忠臣が横暴となったため、大暦14年(779年)これを逐い自立して節度使となる。表面上は恭順を誓い、建中2年(781年)には反乱した山南東道節度使の梁崇義を滅ぼし使相となる。しかし翌年末恩賞の不満から反乱し楚国皇帝と称し、元号を武成とした。朱泚に応じて東都(洛陽)を攻撃した。興元元年(784年)に諸鎮が帰順した後も降らず戦う。慰諭の特使として顔真卿が遣わされたのを捕らえ、配下となるよう説得したが従うことがなかったため、これを殺した。貞元2年(786年)に至り劣勢となり配下の陳仙奇によって殺された。
伝記資料
[編集]- 『新唐書』「李希烈伝」