李懐
イ・フェ 李 懐 | |
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生誕 | 678年 |
死没 | 746年 |
職業 | 軍人 |
子供 | 李智通 |
親 |
李隠之 劉氏(河間県君) |
李 懐 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이회 |
漢字: | 李 懐 |
発音: | イ・フェ |
李 懐(イ・フェ、朝鮮語: 이회、678年 - 746年)は、中国系高句麗人の唐の軍人[1]。李懐の墓誌に「公の十二葉の祖の敏は河内太守と為る…因って遼東の人と為る」とあり、先祖が高句麗に移民し、高句麗化していた漢人[1]。母親の河間県君の劉氏も漢人である[1]。
人物
[編集]父の李隠之が23歳の時に長男として生まれる[1]。曾祖父の李敬は、唐太宗の唐の第一次高句麗出兵後の645年に長安に渡るが居を定めてすぐに逝去したことから、祖父である李直は栄誉を享受していない。また、父の李隠之も官位は高くないが、李懐は、玄宗の韋氏の乱平定に勲功を立て、活躍する[1]。
父の李隠之の墓誌文には「大唐神龍元年正月廿五日寝瘵終於上林里之私第」とあるが、母の劉氏は「大唐開元廿七年四月五日寝疾終於道政里之私第」とあり、李懐も「道政坊(里)」で死亡しており、李隠之・李懐の家族は、上林里から道政里に移転したものか、二つの宅地を備えていたとみられる[1]。
出自
[編集]父の李隠之の墓誌が出土し、洛陽九朝刻石文字博物館が所蔵している。李懐の墓誌は1928年に洛陽の北16キロの南陳庄村で出土しており、千唐誌斎博物館が所蔵している[1]。
其先遼東人也,晋尚書令胤即其枝類。祖敬,父直,或孝徳動天,馳名於楽浪,或忠勤済物,誉表於扶余。公厭海壖之風,慕洛汭之化,重訳納貢,随牒受官,勇武既自於天然,果断寧由於学得。 — 李隠之墓誌
昔晋氏乘乾,遼川塵起,帝欲親伐,実要□□。公十二葉祖敏為河内太守,預其選也。克滅之後,遂留拓鎮,俗頼其利,、因為遼東人。至孫胤,挙孝廉,仕至河南尹,加特進,遷尚書令,晋之崇也。曾祖敬,隋襄平郡従事。太宗東幸海関,、訪晋尚書令李公之後,僉曰:末孫孜在。帝許大用,尽室公行,爰至長安,未貴而没。悲夫!其子曰直,直生隠之,贈清源郡司馬,公則清源府君之冢子也。 — 李懐墓誌
楼正豪は、この墓誌史料、『三国志』『晋書』『北史』『新唐書』などに基づき、李隠之と李懐の先祖の考証をおこない、「李敏 - 李信 - 李胤 - □□ - □□ - □□ - □□ - □□ - □□ - 李敬 - 李直 - 李隠之 - 李懐 - 李智通」という李氏の系譜を明らかにしている[1]。
李隠之は「殯を河南府河南県平楽郷の原にうつし」、開元廿七年五月に妻の劉氏と合葬となり、新たな墓は「公の旧塋の西南一里半」にある。李懐は、天宝四載四月二十二日に妻の王氏と「洛陽県平楽郷の原、周礼に従う」に合葬されている。すなわち、李隠之・李懐父子の墓は区域内にあり、唐人の家族父子は共同墓地をもつという慣例に準じており、高句麗化した漢人後裔である李隠之・李懐父子は、純粋な高句麗人とは生活規範に相当違いがみられる[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 拝根興 著、土屋昌明 訳『新発見入唐高麗移民墓誌からみた唐代東アジアの人流』 3巻、専修大学社会知性開発研究センター〈専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報〉、2017年3月、65-67頁。doi:10.34360/00008255 。