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李景遺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 景遺(り けいい、生年不詳 - 537年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人本貫趙郡柏人県李元忠の族叔にあたる[1][2]

経歴

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若くして雄武にたけ、胆力があり、はみ出し者たちと結んで盗賊となり、郷里を荒らして苦しめていた。永安3年(530年)、兄の南鉅鹿郡太守李無為が横領の罪で御史の弾劾を受け、州の獄中に拘禁された。景遺は十数騎を率い、台使と偽って州城に入り、李無為を連れ去った。州軍が追討したが、捕らえることはできなかった。このことで任侠として知られた。普泰元年(531年)、高歓が信都で挙兵すると、景遺はその軍門に赴き、厚遇を受けた。李元忠とともに西山で挙兵して、殷州刺史の爾朱羽生を捕らえた。功績により龍驤将軍に任ぜられ、昌平県公に封ぜられた。爾朱兆が攻撃してくると、景遺は奮戦して功績を挙げ、使持節・大都督・左将軍となった。太昌元年(532年)、昌平郡公に進み、車騎将軍を加えられた。東魏の天平元年(534年)、潁州刺史として出向した[1][3]。天平4年(537年[4][5][6]、前の潁川郡太守の元洪威に襲撃されて殺害された。侍中・都督殷滄二州諸軍事・大将軍・開府・殷州刺史の位を追贈された。子の李伽林が後を嗣いだ[1][7]

脚注

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  1. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 319.
  2. ^ 北斉書 1972, p. 318.
  3. ^ 北斉書 1972, pp. 318–319.
  4. ^ 周書 1971, p. 640.
  5. ^ 北史 1974, pp. 2345–2346.
  6. ^ 『周書』および『北史』の崔彦穆伝が「大統三年」のこととしている。
  7. ^ 北斉書 1972, p. 319.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4