李素節
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李素節 | |
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続柄 | 高宗第4皇子 |
称号 | 雍王 |
出生 |
貞観22年(648年) |
死去 |
載初元年(690年) |
埋葬 | 乾陵 |
子女 | 李璟、李瑛、李琪、李琬、李瓚、李瑒、李瑗、李琛、李璡、李琳、李瓘、李璆、李欽古 |
父親 | 高宗 |
母親 | 蕭淑妃 |
李素節(り そせつ)は、唐の高宗の四男。母は蕭淑妃。中宗と睿宗の異母兄にあたる。
生涯
[編集]永徽2年(651年)、雍王に封ぜられ、まもなく雍州牧に任ぜられた。徐斉聃に師事して学問を受け、古い詩や賦を暗誦した。勉学にまじめにいそしんだので、高宗に愛された。のち岐州刺史に転じ、郇王に改封された。しかし母の蕭淑妃が武則天と争って死ぬと、素節は申州刺史に流された。
乾封元年(666年)、素節は病のため入朝しなくてよいとする詔が下った。素節は実は病ではなく、『忠孝論』を著して自分の考えを述べた。倉曹参軍の張柬之がこの『忠孝論』を献上すると、武則天は不愉快に思い、素節を収賄事件に連座させて鄱陽王に降格し、袁州に身柄を移した。儀鳳2年(677年)、素節は終身禁錮とされ、岳州に移された。永隆元年(680年)、岳州刺史に転じ、のちに葛王に改封された。武則天が称制すると、許王に進封され、舒州刺史となった。
載初元年(690年)、異母兄の沢王李上金とともに逮捕され、洛陽の南の龍門駅で縊り殺された後、庶人の礼で葬られた。
子の李璟・李瑛・李琪・李琬・李瓚・李瑒・李瑗・李琛・李璡ら9人は処刑されたが、李琳・李瓘・李璆・李欽古らは幼かったので、雷州に流されて幽閉された。
中宗が復位すると、素節は生前にさかのぼって許王の封を回復し、開府儀同三司・許州刺史の位を追贈され、乾陵に陪葬された。李瓘が許王の位を継ぎ、実封400戸を受けた。