李紹
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李 紹(り しょう、1407年 - 1471年)は、明代の学者・官僚。字は克述。本貫は吉安府安福県。
生涯
[編集]1407年(永楽5年)12月27日、李遵武と劉氏のあいだの子として生まれた。1433年(宣徳8年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に任じられた。1435年(宣徳10年)、翰林院検討に進み、『宣宗実録』の編纂に参加した。大学士の楊士奇が病床に臥せり、英宗が使者を派遣して人材を問わせると、楊士奇は李紹ら5人の名を挙げて答えた。1446年(正統11年)、母が死去したため、李紹は辞職して喪に服した。1449年(正統14年)、喪が明けると、李紹は翰林院修撰に進んだ。土木の変が起こり、北京に戒厳が布かれると、朝士の多くは家族を南方に避難させた。李紹は「主が辱められて臣が死ぬというのに、家をどうしようというのか」といって避難させなかった。1450年(景泰元年)、経筵講官を兼ねた。1452年(景泰3年)、司経局洗馬となり、翰林院修撰を兼ねた。1456年(景泰7年)、『寰宇通志』の編纂に参加した。右春坊右庶子となり、翰林侍講を兼ねた。1457年(天順元年)、翰林侍講を兼ねたまま、尚宝司卿となった。冬、翰林学士となった。1458年(天順2年)、李賢や王翺の推薦により、礼部右侍郎に抜擢された。1464年(天順8年)、『英宗実録』の編纂を命じられ、副総裁をつとめた。1466年(成化2年)、病のため致仕を請願した。1471年(成化7年)1月28日、死去した。享年は65。