李諒 (唐進士)
表示
李 諒(り りょう、大暦10年(775年) - 大和7年(833年)3月)は、中国の唐の官僚。字は復言。徳宗の貞元16年(800年)に進士登第、貞元21年(805年、順宗の永貞元年)春に塩鉄使となり左拾遺を授けられるが、王叔文(おうしゅくぶん)の永貞革新に際して王叔文に与したとして順宗の元和2年(807年)に同州澄城県の県令に左遷される。以降県令や州の刺史といった地方官を歴任するが、文宗の大和3年(829年)に大理卿から京兆の尹に転出、大和4年(830年)7月から大和5年(831年)2月まで桂管経略使を勤め、尋いで嶺南節度使へと転じた後、大和7年(833年)3月に在職のまま死去した[1]。在世中は白居易や元稹と交遊があったといい、『続玄怪録』の撰者にも擬せられているが[2]、一方で『続玄怪録』に収める「張老」の末に「塩鉄院を知(つかさど)」った李公の命で同則を誌したとある「李公」を李諒と見る説もある[3]。