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李進 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 進(り しん、? - 1295年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。順天軍曲陽県の出身。

概要

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李進は幼くして軍籍に属し、万戸の張柔の軍に加わって杞州の三叉口に駐屯した。この頃、荊山の西90里に龍岡という南宋との境界があり、1238年戊戌)春に張柔は龍岡の上に堡塁を築き始めた。淮河の水位が満ちた頃に南宋水軍が接近すると、李進は15名の兵を載せた舟一隻で一巨艦を奪う功績を挙げ、これにより百戸に昇格となった[1]

1258年戊午)よりモンケの南宋親征が始まると、丞相の史天沢が諸国の勇敢な兵の選抜を行い、これに選ばれた李進は総把に任じられた。同年9月には陳倉より興元に入り、米倉関を過ぎたあたりからは荒れた土地を切り開きながら700里を進んだ。11月に定遠七十関に至ったが、これらの諸関は互いに連携して守りを固めている上、江水の流れが進軍を阻む天険の要塞であった。史天沢の命を受けて李進は投降するよう南宋兵に呼びかけたが拒否されたため、李進は密かに間道を探って力攻めするよう史天沢に進言した。その夜、史天沢は李進を含む勇士70人を派遣して間道から攻め入らせたが、途中で守備兵に気づかれ李進も傷を負ってしまった。しかし、李進はここから30人余りを殺傷して守備隊を退却させ、遂に城門を破壊して本軍を城内に入れることに成功した[2]

1259年己未)2月、史天沢軍はモンケ軍に合流して釣魚山を包囲し、同年5月には嘉陵江より攻めてきた南宋水軍と三槽山の西で一戦交えた。6月には三槽山の東で南宋水軍を破り、7月には300隻余りで黒石峡に停泊する南宋水軍に対して、李進は先鋒として小舟50艘を率いて活躍し、戦後クビライ直々に戦功を賞されて錦衣・名馬を授けられている。8月には再び浮図関で南宋軍と戦い、前後5度にわたる戦闘で挙げた功績により上賞を受けた[3]

クビライが即位すると侍衛親軍に入り、中統2年(1261年)には総把の地位を授けられ、中統3年(1262年)には李璮の乱討伐に従事している。至元8年(1271年)からは襄陽の包囲に加わり、至元12年(1275年)には湖南湖北一帯の平定に従事した。首都の臨安の陥落により南宋が事実上滅ぶと兵馬使の地位を授けられて鄂州に駐屯し、至元13年(1276年)には更に2千の兵を率いて河西中興府で屯田した。至元14年(1277年)、武略将軍・千戸に昇格となり、至元15年(1278年)には六盤山に移った。至元17年(1280年)、更に明威将軍・管軍総管に昇格となり、至元19年(1282年)には懐遠大将軍とされてウイグリスタンのビシュバリクに屯田した[4]

至元23年(1286年)、カイドゥドゥアが軍を率いて洪水山に至ると、李進はこれを迎撃すべく出撃したものの、衆寡敵せず敗れ捕虜となった[5][6]。しかしジャンバリクに至った所で李進は脱走し、カラコルムまで至ると敗走した兵300を集めて抗戦を続けた。その後、クビライの下に戻ると戦功を称えられて金織紋衣2襲・鈔1500貫を下賜された。至元25年(1288年)、蒙古侍衛親軍都指揮使司僉事の地位を授かり、また至元26年(1289年)には左翼屯田万戸とされたが、元貞元年(1295年)春に亡くなった[7]

死後は息子の李雯が地位を継いでいる[8]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「李進、保定曲陽人。幼隷軍籍、初従万戸張柔屯杞之三叉口、時荊山之西九十里曰龍岡者、宋境也。歳庚戌春、張柔引兵築堡岡上。会淮水汎漲、宋以舟師卒至、主帥察罕率軍逆戦、進以兵十五人載一舟、転闘十餘里、奪一巨艦、遂以功陞百戸」
  2. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「戊午、憲宗西征、丞相史天沢時為河南経略大使、選諸道兵之驍勇者従、遂命進為総把。是年秋九月、道由陳倉入興元、度米倉関、其地荒塞不通、進伐木開道七百餘里。冬十一月、至定遠七十関、其関上下皆築連堡、宋以五百人守之、巴渠江水環堡東流。天沢命進往関下説降之、不従。進潜視間道、帰白天沢曰『彼可取也』。是夜二鼓、天沢遣進率勇士七十人、掩其不備、攻之、脱門枢而入者二十人。守門者覚、抜刀拒之、進被傷、不以為病。懸門俄閉、諸軍不得入、進与二十人力戦、殺傷三十人。後兵走上堡、進乃毀懸門、納諸軍、追至上堡、殺傷益衆、宋兵不能敵、棄走。夜将旦、進遂得其堡、守之、関路始通、諸軍尽度。進以功受上賞」
  3. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「己未春二月、天沢兵至行在所、囲合州釣魚山寨。夏五月、宋由嘉陵江以舟師來援、始大戦三槽山西。六月、戦山之東、有功。秋七月、宋兵戦艦三百餘泊黒石峡東、以軽舟五十為前鋒、北軍之船七十餘泊峡西、相距一里許。帝立馬東山、擁兵二万、夾江而陣、天沢乃号令於衆曰『聴吾鼓、視吾旗、無少怠也』。頃之、聞鼓声、視其旗東指、諸軍遂鼓譟而入、兵一交、宋前鋒潰走、戦艦継乱、順流縦撃、死者不可勝計。帝指顧謂諸将曰『白旗下服紅半臂突而前者、誰也』。天沢以進対、賞錦衣・名馬。八月、又戦浮図関、前後凡五戦、皆以功受上賞」
  4. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「世祖即位、入為侍衛親軍。中統二年、宣授総把、賜銀符。三年、従征李璮有功。至元八年、領兵赴襄陽。十二年、従略地湖北・湖南。宋平、以兵馬使分兵屯鄂州。十三年、領軍二千、屯田河西中興府。十四年、加武略将軍、陞千戸。十五年、移屯六盤山、加武毅将軍、賜金符。十七年、陞明威将軍・管軍総管。十九年、賜虎符、復進懐遠大将軍、命屯田西域別石八里」
  5. ^ 安部1955,108頁
  6. ^ 劉2005,276-277頁
  7. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「二十三年秋、海都及篤娃等領軍至洪水山、進与力戦、衆寡不敵、軍潰、進被擒。従至摻八里、遁還、至和州、収潰兵三百餘人、且戦且行、還至京師、賞金織紋衣二襲・鈔一千五百貫。二十五年、授蒙古侍衛親軍都指揮使司僉事。明年、改授左翼屯田万戸。元貞元年春、卒」
  8. ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「子雯、襲授武徳将軍・左翼屯田万戸、佩虎符。皇慶二年、加宣武将軍。延祐六年、仁宗念其父進嘗北征被掠、特賜雯中統鈔五百錠以恤之。泰定元年春、以疾辞。子朶耳只襲」

参考文献

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  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 劉迎勝『察合台汗国史研究』上海古籍出版社、2006年
  • 元史』巻154列伝41李進伝
  • 新元史』巻163列伝60李進伝