李釗

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李 釗(り しょう、生没年不詳)は、西晋成漢の人物。字は世康。広漢郡郪県の出身。曾祖父は李氏の三龍と謳われた李朝。祖父は光禄郎中主事李旦。父は寧州刺史・龍驤将軍・成都内侯李毅。妹は李秀

生涯[編集]

李釗の家は代々儒学を専行していた。李釗は風格を有し、人望があったという。

後に、父の功績により謁者僕射に任じられ、さらに寿林侯相に移った。しばらくした後に尚書外兵郎任じられた。

永興3年(306年)、父の李毅は寧州刺史として夷族の反乱鎮圧に当たっていたが、病を患い戦闘の指揮を執ることが出来なくなった。李毅は上奏して助けを求めたが、当時李雄蜀郡を荒らしまわっていたので道は全て封鎖されており、救援軍は到達できなかった。李釗は父の危機を知ると、上表して自ら救援に赴く事を告げた。牂牁に到達すると、夷族はまた道を封鎖して交州との往来を断絶させていた。3年かけてようやく寧州城にたどり着いたが、既に父は亡くなっており、妹の李秀が寧州を統治していた。百官は皆、李釗を推戴して領州府事としたので、妹に代わって州事を執り行った。その後、朝廷の命により、平寇将軍・領安夷護軍・西夷校尉に任じられた。新任の寧州刺史王遜が着任すると、李釗が民心を良く得ていた事から、上表して朱提郡太守に任じた。その後、越巂郡太守に移り、南広を統治した。成漢の李雄の軍勢が攻めよせると、李釗はこれを阻んで幾度も破り、成漢の大将楽初を斬った。

太寧元年(323年)、成漢の太傅李驤任回が兵を分けて朱提・越巂に攻め寄せると、城は陥落した。李釗は捕らえられたが、隙を見て逃げ出して王遜の下に至った。王遜の命により、再び李釗は越巂郡太守に任じられた。李雄が再び李驤と任回を派遣して侵攻すると、李釗は南秦に入って漢嘉郡太守王載と合流し、共に力戦して成漢軍を阻んだ。だが、温水において敗戦を喫し、遂に朱提・越巂の二郡をもって李雄に降伏した。

李釗が成都に到来すると、李雄は自ら出迎え、甚だ厚遇した。李雄の命により、李釗は朝儀・葬祭の礼の一切を定めた。また、李雄の命により皇太子李班に礼事を教育し、李班もまた進んで彼に教えを請うたという。

伝記資料[編集]