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李銘書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李銘書
吉林省長時代(1935年)
プロフィール
出生: 1878年 [1][2][3]
死去: 1939年康徳6年)10月8日 [1][3][4]
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区錦州府(現在の黒山県房山鎮)[2][5]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李銘書
簡体字 李铭书
拼音 Lǐ Míngshū
ラテン字 Li Ming-shuh
和名表記: り めいしょ
発音転記: リー ミンシュー
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李 銘書(り めいしょ、繁体字: 李銘書; 簡体字: 李铭书; 繁体字: 李銘書; 拼音: Lǐ Míngshū; ウェード式: Li Ming-shuh)は、中華民国満州国の政治家。別号は子箴[1][2][5]

事績

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1912年民国元年)、奉天法政学校を卒業。陸軍第20師書記官となり、以後は主に奉天派において秘書などを務めた。1924年(民国13年)頃には吉林省森林局長兼採金局長の地位に在り[6]、後には吉海鉄路総弁(簡任官)となっている[2]

1932年大同元年)、李銘書は煕洽を補佐して満洲国建国活動に従事し、同年3月の建国に際して吉林省政府公署秘書長に任命された[1]。同年12月、吉林省政府公署民政庁長の王惕が免ぜられ、翌1933年(大同2年)に李が後任となっている[7]1934年康徳元年)12月1日、中央で財政部大臣に任ぜられた煕洽の後任として、李が吉林省長に昇進した[8]

1937年(康徳4年)7月1日付で李銘書は病気を理由に退官(依願免官)し[2][9][10]宮内府顧問官に転じた。翌月に満州拓殖公社が創設されると、その理事も兼ねている。1939年(康徳6年)10月8日、病没。享年62[3]

仏教を篤信し、殺生や肉食を避けたとされる。また、満洲国の省長を務めた人物ながら、後年には大陸の研究者から「悪政が比較的少なかった」との異例の評価も受けている[2]

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  1. ^ a b c d 尾崎監修(1940)、42頁。
  2. ^ a b c d e f 高・王主編(1993)、27頁。
  3. ^ a b c 「李銘書氏」『読売新聞』昭和14年(1939年)10月10日。
  4. ^ 高・王主編(1993)、27頁は「1940年」としている。
  5. ^ a b 劉ほか編(1995)、1292頁。
  6. ^ 田邊編(1924)、446-447頁。
  7. ^ 劉ほか編(1995)、1190頁。
  8. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、40頁。
  9. ^ 「満州国退官者」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)7月1日夕刊。
  10. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、74頁。

参考文献

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  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  • 高文・王水主編『遼寧文史人物録』遼寧人民出版社、1993年。 
  • 田邊種治郎編『東三省官紳録』東三省官紳録刊行局(大連)、1924年。 
  • 満洲国史編纂委員会編『満洲国年表 本編』満蒙同胞援護会、1956年。 
  満州国
先代
煕洽
吉林省長
1934年12月 - 1937年7月
次代
閻伝紱