村上巧児
村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)8月14日[1] - 1963年(昭和38年)10月21日[1][2])は、日本の実業家、政治家。西日本鉄道社長、貴族院勅選議員。
経歴
[編集]大分県下毛郡中津諸町(現中津市諸町)で、旧中津藩藩医・教育者、村上田長の四男として生まれた[3][4]。大分中学中津分校(のち中津中学、現大分県立中津南高等学校)を経て[3]、1903年、早稲田大学政治経済科を卒業した[1][2][3][4]。
大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し記者となる[1][3][4]。1908年、三越呉服店に転じ、広告部、通信販売部で勤務した[3][4]。1912年、和田豊治の勧誘で九州水力電気に入社し、同社取締役、常務を歴任[1][3][4]。1930年、九州水力の九州電気軌道(九軌)買収に伴い、九軌専務に就任[1][3][4]。九州電気軌道不正手形事件に際しては、その解決に尽力した[1]。1936年、九軌社長に就任[2][3]。1940年には井筒屋の社長にも就任[3]。また、戦時体制強化に伴い福岡県内の鉄道事業の統合が計られ、九軌、九州鉄道、博多湾鉄道汽船、福博電車、筑前参宮鉄道の五社が合併して1942年9月に西日本鉄道が発足すると、その初代社長に就任した[1][3]。その他、九州合同バス社長、小倉商工会議所会頭、九州産業協会副会長などを務めた[2]。
戦後、1945年11月、西日本鉄道社長を辞任[1][3]。1947年3月6日、貴族院勅選議員に任じられ[5]、同年5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。 1955年から1959年には八幡大学理事長[3]に就任、また井筒屋取締役会長[4]なども務めた。
著作
[編集]- 『亜米利加みやげ』村上巧児、1930年。
- 『還暦』西日本鉄道、1943年。
伝記
[編集]- 西日本鉄道株式会社・井筒屋編『村上巧児翁伝』村上巧児翁伝刊行会、1965年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『福岡県百科事典』下巻、西日本新聞社、1982年。
- 大分放送大分百科事典刊行本部編『大分百科事典』大分放送、1980年。
- 『八幡大學史』 学校法人八幡大学 1980年。
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