村尾重昌
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村尾 重昌(むらお しげまさ、天正10年(1582年) - 寛永3年11月13日(1626年12月31日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。薩摩入来院氏の一族。徳次郎、長助、舎人、右衛門兵衛。
略歴
[編集]須木地頭・村尾重侯の次男であったが、兄の重良が朝鮮の役出征中に死去したために嫡男となる。
慶長4年(1599年)の「庄内の乱」、慶長5年(1600年)に島津義弘が帰還する際、伊東氏家臣・稲津重政軍との戦いで武功があった。特に稲津軍との戦いの際は、敵将の仮屋原弥助を上野忠則と共に討ち果たし、島津義弘から長刀一振りと「舎人」の名を賜っている。
慶長15年(1610年)、琉球の検地役として鹿島重国、毛利之親と共に渡海、元和2年(1616年)に父の村尾重侯が病没すると、その跡を継いで須木地頭に就任した。
寛永3年(1626年)11月13日に没する。父と同様に須木・米良氏の菩提寺でもあった「一麟寺」(現在は廃寺)に弔われた。法名は「覚翁定圓庵主」。