村山藤子
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村山 藤子(むらやま ふじこ、本名:村山於藤、むらやま おふじ、1897年4月29日 - 1989年3月20日)は、日本の実業家。朝日新聞社の社主家として大きな影響力をもち[1]、香雪美術館理事長、ロイヤルホテル相談役、大阪国際フェスティバル協会常務理事などを歴任した[1][2]。
来歴
[編集]『朝日新聞』の創業者である村山龍平の一人娘として大阪に生まれ、学校には通わず、京都大学教授らを家庭教師に招いて教育された[1]。
1919年、岡部長挙を婿養子に迎えて結婚(村山長挙)[2]。1933年に父・龍平が死去すると、夫・長挙が会長(後、1940年に社長)となった。やがて藤子は、社長夫人、大株主の社主家として影響力をもつようになっていった[2]。
特に1963年以降のいわゆる村山事件など、朝日新聞社の経営陣としばしば対立した[1]。当時、平林たい子は、「村山藤子夫人論」という文章で、「新聞社内の民主化に一老女性がついて行けなかった」と評した[3]。
この間、藤子は、朝日ビルディング社長(後、名誉会長)、香雪美術館理事長、ロイヤル・ホテル相談役などを歴任した[2][4]。
また、大阪国際フェスティバル協会常務理事として、クラシック音楽の普及にも関わった[2][4]。茶道への造詣も深く、藪内流家元藪内紹智などとも親交があった[4]。