村松甚蔵
村松甚蔵 むらまつ じんぞう | |
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生年月日 | 1870年1月13日 |
出生地 |
日本 甲斐国山梨郡甲府柳町 (現山梨県甲府市中央) |
没年月日 | 1945年2月9日(75歳没) |
出身校 |
山梨県師範学校 (現山梨大学) |
所属政党 |
(憲政会→) 立憲民政党 |
選挙区 | 山梨県第1選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1927年2月 - 1928年1月21日 |
村松 甚蔵(甚藏、むらまつ じんぞう、1870年1月13日(明治2年12月12日[1][2][3])- 1945年(昭和20年)2月9日[1][4][5])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]甲斐国山梨郡甲府柳町[1](山梨県[4]西山梨郡甲府柳町を経て現甲府市[5]中央)で、砂糖問屋・上野屋当主[1][2]、先代・村松甚蔵の四男として生まれる[2][3][6][注釈 1]。徽典館、垣岡精義の明憐社で漢学を学び[2]、さらに山梨県師範学校で学んだ[4][5][注釈 2]。1883年(明治16年)に上京し同人社で学んだ[2][4][注釈 3]。1894年(明治27年)10月、兄善蔵の後を相続して甚蔵を襲名した[3][6]。
1888年(明治21年)南洋貿易に従事し、その後、華南を遊歴し、1894年、朝鮮に渡り視察を行い帰国し、家業に従事した[2]。甲府商業会議所議員、大日本製粉専務取締役、南日本製糖取締役、日新館製糸取締役、山梨林業社長、日清製粉監査役、富士川電力監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6]。
政界では、1919年(大正8年)山梨県会議員に選出され、同参事会員も務めた[4][5]。1927年(昭和2年)2月27日[7]、若尾璋八の辞職に伴う第15回衆議院議員総選挙山梨県第1区補欠選挙に立憲民政党から出馬して当選し[1][8]、衆議院議員に1期在任した[4][5]。
1910年(明治43年)甲府市の舞鶴城公園に南塘文庫に設け、その後、境町に私設図書館、汲古館[注釈 4]を建設して同文庫を移して一般の利用に供し[1][4][5]、また、慈善事業などにも私財を投じた[1]。また、1917年(大正6年)甲府城跡を陸軍省から払下げを受ける資金として山梨県に1万1622円を寄付している[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。