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村松甚蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村松甚藏から転送)
村松甚蔵
むらまつ じんぞう
生年月日 1870年1月13日
出生地 日本の旗 日本 甲斐国山梨郡甲府柳町
(現山梨県甲府市中央)
没年月日 (1945-02-09) 1945年2月9日(75歳没)
出身校 山梨県師範学校
(現山梨大学)
所属政党 (憲政会→)
立憲民政党

選挙区 山梨県第1選挙区
当選回数 1回
在任期間 1927年2月 - 1928年1月21日

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村松 甚蔵(甚藏、むらまつ じんぞう、1870年1月13日(明治2年12月12日[1][2][3])- 1945年昭和20年)2月9日[1][4][5])は、明治から昭和前期の実業家政治家衆議院議員

経歴

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甲斐国山梨郡甲府柳町[1]山梨県[4]西山梨郡甲府柳町を経て現甲府市[5]中央)で、砂糖問屋・上野屋当主[1][2]、先代・村松甚蔵の四男として生まれる[2][3][6][注釈 1]徽典館、垣岡精義の明憐社で漢学を学び[2]、さらに山梨県師範学校で学んだ[4][5][注釈 2]。1883年(明治16年)に上京し同人社で学んだ[2][4][注釈 3]。1894年(明治27年)10月、兄善蔵の後を相続して甚蔵を襲名した[3][6]

1888年(明治21年)南洋貿易に従事し、その後、華南を遊歴し、1894年、朝鮮に渡り視察を行い帰国し、家業に従事した[2]。甲府商業会議所議員、大日本製粉専務取締役、南日本製糖取締役、日新館製糸取締役、山梨林業社長、日清製粉監査役、富士川電力監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6]

政界では、1919年(大正8年)山梨県会議員に選出され、同参事会員も務めた[4][5]。1927年(昭和2年)2月27日[7]若尾璋八の辞職に伴う第15回衆議院議員総選挙山梨県第1区補欠選挙立憲民政党から出馬して当選し[1][8]、衆議院議員に1期在任した[4][5]

1910年(明治43年)甲府市の舞鶴城公園に南塘文庫に設け、その後、境町に私設図書館、汲古館[注釈 4]を建設して同文庫を移して一般の利用に供し[1][4][5]、また、慈善事業などにも私財を投じた[1]。また、1917年(大正6年)甲府城跡を陸軍省から払下げを受ける資金として山梨県に1万1622円を寄付している[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 幼名は『大日本人物誌』む之部23頁では育造、『人事興信録 第4版』む22頁では文次郎、『人事興信録 第8版』ム37頁では久治郎。
  2. ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』448頁、『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』641頁では卒業。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』641頁では卒業。
  4. ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』448頁では汲放館、『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』641頁では汲故館。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』918-919頁。
  2. ^ a b c d e f g 『大日本人物誌』む之部23頁。
  3. ^ a b c d 『人事興信録 第4版』む22頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』641頁。
  5. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』448頁。
  6. ^ a b c 『人事興信録 第8版』ム37頁。
  7. ^ 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』261頁。
  8. ^ 『官報』第51号、昭和2年3月4日。

参考文献

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  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。