杜稜
杜稜(と りょう、天監2年(503年)- 太建4年6月11日(572年7月6日))は、南朝梁から陳にかけての人物。字は雄盛。本貫は呉郡銭唐県。
経歴
[編集]銭唐県の豪族の家に生まれたが、若くして零落して嶺南に流浪し、梁の広州刺史の蕭暎(蕭憺の子)に仕えた。蕭暎が死去すると、陳霸先に従い、書記をつかさどった。侯景の乱が起こると、将軍となり、蔡路養・李遷仕を平定するのに功績を挙げた。豫章に進軍すると、湘東王蕭繹により仁威将軍・石州刺史に任じられ、上陌県侯に封じられた。
侯景の乱が平定され、陳霸先が朱方に駐屯すると、杜稜は監義興琅邪二郡諸軍事をつとめた。承聖4年(555年)、陳霸先が王僧弁を討つにあたって、杜稜は侯安都らとともに召されて協議したが、杜稜は挙兵に難色を示した。陳霸先は杜稜の口から計画が漏れることを恐れて、手巾で杜稜を縛りあげ、別室に幽閉した。陳霸先が王僧弁を襲撃すると、杜稜を同行させた。同年(紹泰元年)、陳霸先が杜龕らを討つと、杜稜は侯安都とともに建康の留守をつとめた。徐嗣徽と任約が北斉軍を率いて長江を渡り、建康を攻撃してくると、杜稜は侯安都とともに防戦した。紹泰2年(556年)、功績により通直散騎常侍・右衛将軍・丹陽尹に任じられた。
永定元年(557年)、陳が建国されると、侍中・忠武将軍の位を加えられた。まもなく中領軍に転じた。永定3年(559年)、武帝(陳霸先)が崩御したとき、杜稜は建康で禁兵を掌握しており、蔡景歴らと図って陳霸先の死を秘密にして、南皖にいる臨川王陳蒨を迎えた。陳蒨(文帝)が即位すると、杜稜は領軍将軍の号を受けた。天嘉元年(560年)、文帝擁立の功績により、永城県侯に改封された。雲麾将軍・晋陵郡太守として出向した。天嘉2年(561年)1月、召還されて侍中・領軍将軍の位を受けた。天嘉6年(565年)1月、翊左将軍・丹陽尹に転じた。
天康元年(566年)、廃帝が即位すると、杜稜は鎮右将軍・特進の位を加えられた。光大元年(567年)5月、再び領軍将軍の号を受けた。
太建元年(569年)、宣帝が即位すると、散騎常侍・鎮東将軍・呉興郡太守として出向した。太建2年(570年)、召還されて侍中・鎮右将軍の位を受けた。9月、特進・護軍将軍の位を加えられた。太建3年(571年)、公務の失敗のため侍中と護軍将軍の位を剥奪された。太建4年(572年)、侍中・右光禄大夫の位を受けた。同年6月辛巳[1]、在官のまま死去した。享年は70。
子の杜安世が後を嗣いだ。
脚注
[編集]- ^ 『陳書』巻5, 宣帝紀 太建四年六月辛巳条による。