東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)
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東ローマ・サーサーン戦争(ひがしローマ・サーサーンせんそう)は、東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシア帝国との間で行われた戦争である。
経過
[編集]602年、ドナウ越冬命令に不満を覚えたフォカスは皇帝マウリキウスを殺害し、帝位を簒奪した[1]。かつてマウリキウスの援助で即位していたホスロー2世はこれを口実に東ローマ帝国に攻め込んだ。サーサーン朝はアナトリアやシリアに攻め込み、シリアの諸都市を占領し、アンティオキアを包囲した[1]。
610年、帝国の混乱を見たヘラクレイオスはカルタゴ総督だった父と共に、フォカスに反旗を翻し、フォカスを処刑して、皇帝に即位した。だがヘラクレイオス即位直後にアンティオキアは陥落した。その後もサーサーン朝の攻勢はつづき、619年にはエジプトを占領し、サーサーン軍はコンスタンティノープルの間近まで迫った。ヘラクレイオスは一時カルタゴへの遷都を考えたが首都住民や教会からの懇願によって思いとどまった。622年、ヘラクレイオスは自ら軍を率いて、海路からキリキアに上陸し、サーサーン朝軍を打ち破り、カッパドキアを東ローマ帝国の手に取り戻した。さらにアルメニアも占領しサーサーン朝本土に攻め込んだ。626年、サーサーン朝はアヴァールと同盟を結び、アヴァールにコンスタンティノープルを攻めさせた。だが首都駐留軍の抵抗によって失敗した。627年、ヘラクレイオスはニネヴェの戦いでサーサーン軍に勝利し、サーサーン朝首都クテシフォンまで到達した。ホスロー2世はクーデターで殺され、後を継いだカヴァード2世は東ローマ帝国と和議を結んだ。東ローマ帝国はシリア、エジプトの領地を回復した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- エドワード・ギボン著 『ローマ帝国衰亡史』