東亜考古学会
東亜考古学会(とうあこうこがっかい)は1926年に設立された日本の学術団体。戦前に中国大陸で発掘調査をするために結成され、戦後には対馬・壱岐・北海道で発掘をおこなった。先進的な調査をおこない高水準の報告書を刊行したとの評価の一方で、植民地考古学との批判もある[1]。
概要
[編集]義和団の乱の賠償金をもとに、日本は「対支文化事業」を企画した。この事業の一環として、中国の遺跡を発掘調査するために創設されたのが東亜考古学会である。初期の構想は原田淑人によるもので、これに共鳴した浜田耕作、島村孝三郎らを中心に結成された。東亜考古学会は中国側の北京大学考古学研究会と共同で東方考古学協会を設立し、これによって日中の学術協力という形で満洲などの地域の発掘調査をおこなったほか両国研究者による講演会や留学生の交換も企画された(→#設立、#戦前の活動)。
戦後には中国での調査をおこなうことができなくなったため、国内の調査に切り替えた(→#戦後の活動)。
調査の報告書として、A4版の甲種全6巻とB5版の乙種全8巻が刊行されている[注釈 1]。
設立
[編集]1900年に勃発した義和団の乱の事後処理では、清朝に多額の賠償金の支払いが課された。日本をはじめとした関係国はこの賠償金を基に中国に還元する事業を行うこととなり、日本は1918年の「支那人教育ノ施設ニ関スル建議」を皮切りに「対支文化事業」[注釈 2]を展開した[2]。
1923年、東京帝国大学講師[注釈 3]であった原田淑人はヨーロッパ留学から帰国し、日中共同による 殷墟の発掘調査を構想した。原田に共鳴した島村孝三郎が京都帝国大学教授の浜田耕作に話を通し、浜田もこれに賛成する[3]。島村はこのとき外務省対支文化事業部の岡部長景部長にも話を通しており[3]、東亜考古学会の活動は前述の「対支文化事業」の一環として外務省の支援を受けながら進められることになる[4]。
原田の回想によれば、1925年に原田が北京に出向き、北京に滞在していた満鉄社員の小林胖生を引き入れた。そして浜田・島村を含めた4人で北京大学教授の馬衡を訪ね、北京側の了解を得る。1926年、再び北京に赴いた浜田と島村が馬衡らと協議を重ね、日本側の調査団体として東亜考古学会を組織し、北京側の北京大学考古学会と共同で東方考古学協会を設立してこれを調査の主体とすることを決定した。ここで調査地として満洲を選択している[注釈 4][3]。一方、島村の回想によると1925年時点で日本側は東亜考古学会設立の準備を完了しており、その上で浜田と島村が1926年に北京大学研究所長の蒋夢麟に日中共同調査の構想を示し、賛成を受けたという[5]。
1926年、北京大学で東方考古学協会の第1回総会がおこなわれた。第2回総会は1927年に東京帝国大学で開催されたが、このとき同時に東亜考古学会の発会式も執り行われた。第2回総会では日中の研究者による公演がおこなわれ、その講演録として『考古学論叢』1が刊行された。続く第3回・第4回総会の講演記録は『考古学論叢』2にまとめられている[6]。
戦前の活動
[編集]東亜考古学会は東方考古学協会の日本側の調査団体として発掘調査をおこなったほか、日中の学術連携の目的のため相互に研究者による講演会を開催したり(→#設立)、留学生を派遣したりしていた。
大陸での調査
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留学生の派遣
[編集]東方考古学協会では、日中で交換留学を実施していた。東亜考古学会は東大・京大から交互に留学生を派遣している。第1回は東大の駒井和愛、第2回は京大の水野清一、以下、江上波夫、田村実造、三上次男、 赤堀英三、小林知生、小野勝年、関野雄が続いた[7]。
前述のとおり、東亜考古学会の活動は外務省の「対支文化事業」の一環としておこなわれていたため、東亜考古学会が派遣する留学生は単なる学会の留学生というだけでなく、中国で見聞を広めた彼らは以降の東洋学の発展に寄与した[8]。
戦後の活動
[編集]終戦後、大陸における調査をおこなうことができなくなった東亜考古学会は、国内での調査を進める一方で戦前の調査の報告書を引き続き刊行した。
国内での調査
[編集]戦後すぐの日本考古学界に大きく注目されたのが 静岡県登呂遺跡である。東亜考古学会は、島村孝三郎が第1次調査の会計を務めるという形でこの遺跡の発掘調査に関わっている[9][10]。
戦後の東亜考古学会は、日本国内において「外来文化接触濃厚」[11]の地を調査地として選択し、北と南でそれぞれ発掘をおこなう。駒井和愛を中心とする東京大学のメンバーは北海道モヨロ貝塚を、水野清一を中心とする京都大学のメンバーは長崎県対馬・壱岐の諸遺跡の考古学的調査を進めた[10]。
報告書の刊行
[編集]戦後に刊行された東亜考古学会による戦前の調査の報告書には、東方考古学叢刊乙種第5冊『万安北沙城』、同第7冊『邯鄲』、同第8冊『陽高古城堡』がある(→#刊行物)。1990年刊行の『陽高古城堡』は1943年の「略報」、1946年の『蒙疆考古記』以来48年ぶりの本報告となった[12]。
また、1981年に東方考古学叢刊甲種全6巻が復刊され、付録として『東亜考古学会懐古』が編まれ添付された[12]。
刊行物
[編集]- 東方考古学叢刊 甲種
- 浜田耕作『貔子窩:南満洲碧流河畔の先史時代遺跡』東亜考古学会、1929年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『貔子窩:南満洲碧流河畔の先史時代遺跡』雄山閣、1981年。
- 原田淑人、駒井和愛『牧羊城:南満州老鉄山麓及漢以前遺跡』東亜考古学会、1931年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『牧羊城:南満州老鉄山麓及漢以前遺跡』雄山閣、1981年。
- 浜田耕作、島田貞彦『南山裡:南満州老鉄山麓の漢代甎墓』東亜考古学会、1933年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『南山裡:南満州老鉄山麓の漢代甎墓』雄山閣、1981年。
- 森修、内藤寛『営城子:前牧城駅附近の漢代壁画甎墓』東亜考古学会、1934年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『営城子:前牧城駅附近の漢代壁画甎墓』雄山閣、1981年。
- 原田淑人『東京城:渤海国上京竜泉府址の発掘調査』東亜考古学会、1939年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『東京城:渤海国上京竜泉府址の発掘調査』雄山閣、1981年。
- 浜田耕作、水野清一『赤峰紅山後:満州国熱河省赤峰紅山後先史遺跡』東亜考古学会、1938年。
- 「東方考古学叢刊」甲種刊行会 編『赤峰紅山後:満州国熱河省赤峰紅山後先史遺跡』雄山閣、1981年。
- 東方考古学叢刊 乙種
- 江上波夫、水野清一『内蒙古・長城地帯:蒙古細石器文化・綏遠青銅器及支那北疆縄蓆文土器遺跡』東亜考古学会、1935年。
- 原田淑人、駒井和愛『上都:蒙古ドロンノールに於ける元代都址の調査』東亜考古学会、1941年。
- 金関丈夫、三宅宗悦、水野清一『羊頭窪:関東州旅順鳩湾内における先史遺跡』東亜考古学会、1943年。
- 直良信夫、赤堀英三ほか『蒙古高原前篇:錫林郭爾・烏蘭察布に於ける地質・古生物・人類の調査』座右宝刊行会、1943年。
- 水野清一、岡崎卯一『万安北沙城:蒙疆万安県北沙城及び懐安漢墓』座右宝刊行会、1946年。
- 水野清一、樋口隆康、岡崎敬『対馬:玄海における絶島、対馬の考古学的調査』東亜考古学会、1953年。
- 駒井和愛、関野雄『邯鄲:戦国時代趙都城址の発掘』東亜考古学会、1954年。
- 小野勝年、日比野丈夫『陽高古城堡:中国山西省陽高県古城堡漢墓』六興出版、1990年。
- 考古学論叢
- 東亜考古学会、東方考古学協会 編『考古学論叢1』東方考古学協会、1928年。
- 東亜考古学会、東方考古学協会 編『考古学論叢2』東方考古学協会、1930年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]文献
[編集]- 黒沢浩「本からみた日本の考古学(16)」『日本古書通信』第895巻、2004a、24-25頁。
- 駒井和愛 著「東亜考古学会」、日本考古学協会 編『日本考古学辞典』東京堂、1962年、382頁。
- 坂詰秀一「日本考古学史拾遺:東亜考古学会・東方考古学協会と日本古代文化学会」『立正大学文学部論叢』第99巻、1994年、31-57頁。
- 坂詰秀一『太平洋戦争と考古学』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー11〉、1997年。
- 坂詰秀一『転換期の日本考古学:1945~1965文献解題』雄山閣、2021年。
- 酒寄雅志「東亜考古学会の誕生と活動:渤海国東京城の調査を中心に」『一般社団法人日本考古学協会2011年度栃木大会研究発表資料集』2011年、3-6頁。
- 酒寄雅志「東亜考古学会の渤海研究と満洲進出」『歴史学研究』第997巻、2020年、2-13頁。
- 原田淑人「東亜考古学会の果した役割を顧みて」『月刊考古学ジャーナル』第42巻、1970年、2-5頁。
- 向井佑介「日本考古学の100年と中国考古学研究:20世紀前半の調査資料にもとづく新たな研究視角」『中国考古学』第17巻、2017年、3-6頁。