東京やなぎ句会
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東京やなぎ句会(とうきょう・やなぎ・くかい)は1969年に結成された句会(俳句の同好会)である。
メンバー
[編集]創設メンバー
[編集]- 9代目入船亭扇橋(宗匠、俳号は光石)
- 永六輔(俳号は並木橋)
- 小沢昭一(俳号は変哲)
- 江國滋(俳号は滋酔郎)
- 3代目桂米朝(俳号は八十八)
- 大西信行(俳号は獏十)
- 10代目柳家小三治(俳号は土茶)
- 矢野誠一(俳号は徳三郎)
- 三田純市(俳号は頓道)
- 永井啓夫(俳号は余沙)
(創設メンバーの俳号は[1])
のちに参加したメンバー
[編集]概要
[編集]1969年1月5日、東京都新宿区の鮨屋「銀八」で「やなぎ句会」の名で結成。「やなぎ」は宗匠である扇橋[3]と小三治の亭号である「柳」からとった[4]。
同年1月末、やなぎ句会の影響で、雑誌『話の特集』の関係者が「話の特集句会」を開始。永、小沢と、書記の女性は、やなぎ句会と共通していた[5]。
のち神吉、加藤が加わり12人となった。1974年に「東京やなぎ句会」に改称。
細かい会則(規則)があり、欠席の場合は必ず未婚女性を代理で出席させることや、句友の女性に手を出した人は即時除名するなどがある[6]。
毎月17日に定例句会を開催し、俳句の作品発表のほか、俳句とは全く関係ない話などで盛り上がり、ゲストに招かれた鷹羽狩行は「あれは、句会じゃない」と言いつつ、会に喜々として参加していた[4]。
同人の多くが亡くなってしまったため、山下(1997年より書記)、小林、倉野、梅花を加入させた[7]。
10代目柳家小三治の逝去[8]に伴い創設時からのメンバーが矢野誠一のみになったため、矢野の「独断」で2021年10月17日の句会をもって「東京やなぎ句会」の名称を返上した。今後も句会は継続するが、新しい名称は未定[9]。
東京やなぎ句会名義の著書
[編集]- 佐渡新発見 東京やなぎ句会(著) 三一書房(三一新書) 1993
- 友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね 入船亭扇橋, 柳家小三治, 江國滋, 大西信行, 三田純市, 桂米朝, 永井啓夫, 矢野誠一, 永六輔, 神吉拓郎, 小沢昭一, 加藤武(著) 東京やなぎ句会(編集) 日本経済新聞社 1999
- 五・七・五―句宴四十年 東京やなぎ句会(編集) 岩波書店 2009
- 楽し句も、苦し句もあり、五・七・五――五百回、四十二年 東京やなぎ句会(編集) 岩波書店 2011
- 友ありてこそ、五・七・五 東京やなぎ句会(編集) 岩波書店 2013
関連文献
[編集]- 小沢昭一、神崎宣武(聞き手)『道楽三昧 遊びつづけて八十年』岩波新書 2009
外部リンク
[編集]- 五・七・五 句宴四十年(岩波書店)
- 上記作品目次
脚注
[編集]- ^ 江国滋「人間山脈」(芸術生活社)P.273-274
- ^ a b 矢野誠一(発言者)、高田文夫「特集 柳家小三治 「小三治とその時代」」『ユリイカ』青土社、2022年1月1日、72-73頁。ISBN 9784791704118。
- ^ 扇橋は柳家小さん(5代目)門下。
- ^ a b 大田博 (2022年1月). “小三治と共に逝った「東京やなぎ句会」”. FACTA. 2023年5月1日閲覧。
- ^ 矢崎泰久『句々快々「話の特集」交友録』(本阿弥書店)P.9
- ^ 東京やなぎ句会 四十年の愉しみ(入船亭扇橋)
- ^ 矢野誠一『別冊太陽 柳家小三治 「すべて東京やなぎ句会でつくられた 十二人の熱気あふれる才人たち」』平凡社、2018年10月25日、88-91頁。ISBN 9784582945874。
- ^ 2021年10月7日没。享年81。
- ^ 「東京やなぎ句会 名称「返上」 」『夕刊 読売新聞』2021年11月16日付。