東郷重治
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東郷 重治(とうごう しげはる、生没年不詳)は、島津家家臣。通称は与助、与七、安房介。また休伴[1]入道とも。「本藩人物誌」では瀬戸口重為次男で、東郷重位の兄とする。
略歴
[編集]- 元亀3年(1572年)9月27日:下大隅荒平の合戦で、伊地知朝重や伊集院久春とともに戦功をあげる。
- 「上井覚兼日記」の天正12年から14年の記述に「瀬戸口安房介」で登場。当時、唐船噯(あつかい)や守護の島津義久の料理の調理役を務める。天正12年12月27日には水鳥を料理している。
- 天正15年(1587年)の泰平寺行きに御供。同年の上洛時にも御供し、記録に「瀬戸口与助[2]。」とある。
- また、嫡家の東郷重虎(のちの島津忠直)より「瀬戸口」姓から「東郷」姓への改姓の免許を得て、東郷氏を称す(天正15年の上洛以降か)。
- 文禄年中の石高、400石[3]。
- 慶長年間、久志秋目郷地頭[4]。年代不詳ながら内之浦地頭[5]、山川地頭[6]に就任。
- 慶長年間の島津義久の国分新城移住に御供したらしく、「国分諸古記」の『慶長10年 国分衆中』に「東郷安房入道、子 十左衛門、その子十左衛門」と記載あり。なお、同資料には「東郷藤兵衛尉 子 肥前、その子藤兵衛」[7]や、「瀬戸口三左衛門尉」[8]の記載もある。
- 慶長14年の琉球侵攻に参加。[9]
- 「国分諸古記」の『慶長15年9月22日 九満崎御宮作ニ付すすめ日記』に「同(鳥目)三十文 東郷休伴老」とある。なお、同資料には「同(真米)壱升 東郷長門守殿」もある
家族
[編集]- 子:東郷重恒
- (「東郷町史」によると寛永11年死去)。山川郷地頭、高江郷地頭、川内山田郷地頭に就任。この地頭就任については「本藩人物誌」には記載されている。
- 孫:東郷重仍
- 安永7年完成の「三州御治世要覧 巻37」に「東郷十左衛門」が一番与小番に見られるが、重仍の子孫である。
異説・その他
[編集]- 示現流の宗家高弟の系譜を記した久保之英の「示現流聞書喫緊録略系図」では、「本藩人物誌」で兄とする重治を重位の実父だとしている。同書では当時、東郷に改姓していた重治の次男であった重位が、嫡家瀬戸口氏に嗣子なき故に同家の養子になったという。なお、この説の真偽は不明。
- 重治の生没年については不明だが、「国分郷土誌 資料編」の「慶長10年 国分衆中」や慶長15年の久満崎社の資料には東郷重治と思われる人物が出る。また、「鹿児島県史料集 旧記雑録後編4」の慶長18年の資料に「東郷安房入道休伴 高401石7斗8舛7合 門屋敷14 」とある。しかし、元和6年の石高についての資料では「東郷十左衛門(重恒と思われる)」が登場するので、慶長18年から元和6年の間に死去した可能性が高い。
- 「示現流聞書喫緊録附録系図」で文禄年間に400石もらったのは重恒(東郷重位の甥。著作いわく重位の兄)であるとしているが、「鹿児島県史料集 旧記雑録」や「国分諸古記」を見れば、慶長以降も重治が十左衛門家当主であることがわかる。
- 東郷十左衛門家については川崎大十著の「さつまの姓氏」や「東郷町史」に掲載されている。しかし同書では東郷重治を、日置流弓術初代師範の東郷重尚と混同してしまっている。東郷重尚は加治木衆から鹿児島衆になった人だから、国分衆の瀬戸口流東郷氏とは関係は薄く、当然同一人物ではない。なお、「さつまの姓氏」での日置流初代師範の東郷重尚の系図は本当は「重張流」の方である。
脚注
[編集]- ^ 後の資料に「弓伴」とするものもあるが、「旧記雑録」の慶長年間の資料によると「休伴」が正しい。
- ^ 「本藩人物誌」参照。ただし、天正12年の段階で「瀬戸口安房介」と称していた人物が「弥助」を称していたとは考えづらく、御供したのは息子の重恒の方であった可能性もあるが詳細不詳。
- ^ 「本藩人物誌」。
- ^ 現在の南さつま市坊津町久志及び坊津町秋目。「諸郷地頭系図」には、「久玉社神社の記録に見える」とある。
- ^ 「諸郷地頭系図」には東郷安房守として記載。
- ^ 「諸郷地頭系図」には安房守重治入道休伴として記載
- ^ 東郷重位とその家族と思われるが、子や孫の記載は後年の修正時に追加された可能性が大きい。東郷十左衛門家に関しても同じことが言える。
- ^ 瀬戸口重為の子の弥八左衛門養子、東郷重照か?
- ^ 「鹿児島県史料集 旧記雑録後編4」
参考文献
[編集]- 「鹿児島士人名録」高城書房
- 「国分郷土誌 資料編」(「国分諸古記」が掲載されている。)
- 村山輝志著「示現流兵法」(「旧記雑録後編」等に登場する東郷重位や東郷安房守ら瀬戸口氏系東郷一門の記述が抜粋して掲載されている。)
- 「東郷町史」