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松下芳男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『反戦運動史』近影(1954年)

松下 芳男(まつした よしお、1892年明治25年〉5月4日 - 1983年昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍軍人(陸軍中尉)・軍事評論家軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士東京大学[1])。新潟県新発田町(新発田市)出身。

人物

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祖父は越後長岡藩藩士[2]、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授[3]。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章富永恭次田中新一らがいる。

同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前歩兵第52連隊に配属される。大正6年(1917年)、陸軍歩兵中尉。大正9年(1920年)6月、大杉栄の紹介で知り合った友愛会幹部に送った私信がもとで、「東京日日新聞」に「社会主義に共鳴」した将校として報じられ、7月に田中義一陸軍大臣の指示で停職処分となる。

同年9月、日本大学に入学(1924年法文学部卒業)。大正10年(1921年)より同13年(1924年)まで、星島二郎片山哲らが経営していた「中央法律新報」の編集長となる。この頃、軍縮問題に関心を持ち、軍備縮小同志会を訪ねる。そして、河野恒吉の紹介で水野廣徳と知り合い、その平和主義思想に多大な影響を受けた。師と仰いだ水野との親交は、昭和20年(1945年)に水野が亡くなるまで続いた。その一方で尾佐竹猛の誘いで明治文化研究会などに参加、近代日本軍事史の研究に着手することになる。

戦時中は、日本大学講師教育総監部嘱託を務める。戦後は軍事史研究に専念し、従来表ざたになっていなかった事柄を明らかにしている[4]。昭和28年(1953年)から同45年(1970年)まで工学院大学教授を務めた。

著書

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  • 『剣執る身にペン執りて』(忠誠堂、1921年)
  • 『資本主義と戦争』(文化学会出版部、1925年。復刻:日本図書センター、2002年)
  • 『無産階級と国際戦』(科学思想普及会、1925年)
  • 『国防と軍備』(日本労働総同盟、1926年)
  • 『非常時に躍る軍部の人物展望』(大道書院、1934年)
  • 『陸海の将星展望』(香川書店、1936年)
  • 『我等の国防と軍備』(田中誠光堂、1941年)
  • 『徴兵令制定史』(内外書房、1943年。増補版:五月書房、1981年)
  • 『明治大正反戦運動史』(草美社、1949年)
  • 『水野広徳』(四州社、1950年。現代語訳・前坂俊之編:雄山閣、1993年)
  • 『反戦運動史』(元々社〈民族教養新書〉、1954年)
  • 『明治軍制史論』(有斐閣、1956年。改訂:国書刊行会、1978年)
  • 『乃木希典』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1960年)
  • 『明治の軍隊』(至文堂〈日本歴史新書〉、1963年)
  • 『日本軍事史叢話』(土屋書店、1963年)
  • 『日本軍事史実話』(土屋書店、1966年)
  • 『山紫に水清き』(仙幼会、1973年)
  • 『日本陸海軍騒動史』(土屋書店、1974年)
  • 『日本軍閥の興亡』(芙蓉書房、1975年。新装版:『日本軍閥興亡史』上・下、芙蓉書房出版、2001年)
  • 『日本軍事史説話』(土屋書店、1975年)
  • 『これは無礼・失礼』(土屋書店、1976年)
  • 『暴動鎮圧史』(柏書房、1977年)
  • 『日本軍事史雑話』(土屋書店、1977年)
  • 田中新一他)『田中作戦部長の証言』(芙蓉書房、1978年)
  • 『日本軍事史閑話』(土屋書店、1979年)

脚注

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  1. ^ 明治軍制史論 松下芳男”. 国立国会図書館. 2014年6月7日閲覧。
  2. ^ 松下芳男『日本軍事史説話』288頁
  3. ^ 松下芳男『日本軍事史雑話』195頁
  4. ^ 海軍史研究会編『日本海軍の本』(自由国民社)30頁

参考文献

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  • 中島欣也『銀河の道―“社会主義中尉”松下芳男の生涯』(恒文社、1989年)
  • 家永三郎責任編集『日本平和論大系7』(日本図書センター、1993年)

外部リンク

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