松井房吉
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松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年6月24日)は、日本の大正期から昭和初期の実業家、相場師。松井房吉商店(現在の松井証券)の創業者。
人物
[編集]明治初期に三重県桑名市の医者・加藤勘兵衞の次男として生まれる[1]。松井家に養子に出され松井姓になる。日本橋蛎殻町で丸三商店(現在の丸三証券)創業者の1人である川北徳三郎のもとで相場を修業し、川北とともに日本橋兜町に進出する。兜町で5人の仲間と匿名組合を設立して、株取引の仲介業務を始め、1918年5月10日他の5人から権利を買い取り松井房吉商店を創業した。兜町では「売りの房吉」と恐れられ、第一次世界大戦後の1920年3月15日の株価大暴落で、兜町でただ1人大儲けをし、巨万の富を築く。その後は、大相場を張らなくなり、金、ダイヤ、国債、南満州鉄道などの国策会社の株券を買ったが、戦争で国に供出したり、敗戦で価値が無くなるなどして、自宅・自社ビル以外のほぼ全ての財産を失う。1949年、息子の武に会社を譲り、翌年死去した。
略歴
[編集]- 1871年 - 三重県桑名市の医者の家に生まれる。
- 1918年 - 5月10日松井房吉商店を創業。東京株式取引所一般会員となる。長男・武誕生。
- 1920年 - 3月15日株価大暴落。売り仕掛けにより巨万の富を得る。
- 1927年 - 東京市本郷区本郷西片町に豪邸を建てる。
- 1931年 - 株式会社松井商店を設立。
- 1949年 - 長男・武に松井證券株式会社社長を譲る。
- 1950年6月24日 - 死去。法名は、廣松院釋浄房。
信条
[編集]- 勝つまでやる。勝ったらやめる
- 国を信用するな
- 「もう」は「まだ」なり、「まだ」は「もう」なり
- 耐えて、耐えて、耐え抜く。忍耐だけが相場だ
関連項目
[編集]- 遠山元一(日興証券創業者) - 松井房吉と親しく、房吉の息子・武と遠山の息子・直道は、東京帝国大学の先輩と後輩。武の娘婿松井道夫はこの縁で日興證券に出向し研修を受ける。
- 阪東妻三郎 - 房吉は毎週土曜日に塔ノ沢温泉の温泉旅館「福住楼」へ行き、ファンが大勢で迎えるほどの人気を誇った阪東妻三郎と張り合うように派手に遊んだ。
- 塔ノ沢駅 - 房吉は、夢枕に白蛇が立ったのを機に、この駅の構内に弁才天を祭る祠(深沢銭洗弁天)を寄贈した。
脚注
[編集]- ^ “松井房吉 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2021年5月13日閲覧。
参考文献
[編集]外部リンク
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