松原一閑斎
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松原 一閑斎(まつばら いっかんさい、元禄2年1月10日 (旧暦)(1689年1月30日)- 明和2年5月28日 (旧暦)(1765年7月15日))は、江戸時代の医学者。古方四大家に数えられる[1]。
名は維岳(これおか)、通称は次郎。幼名を仁重郎、壮年の頃丹治、後才二郎と改める。一閑斎はその号。塾号を成章堂又は、盈科薬室という。父は松原宗右衛門信之といい、母を須佐島権左衛門の長女牧(まき)といい、須佐町(現 山口県萩市)に生まれ、明和2年(1765)京都において77歳にて没した。墓は京都神楽岡の迎称寺(萩の寺)。並河天民に医と儒を学んだのち[1]、京都衣棚通押小路下ル町にて医を営んだ。弟子として集まったもの数百人に及んだといわれる。妻は京都出身で、旧姓吉川、治郎左衛門の娘、道。三男四女に恵まれた。長子の松原敬輔、三男の長井俊は小浜藩医となり、二男の松原周治は徳島藩医となった。主な弟子に合田求吾、藤村九皐、福島芳翁、橋詰順治らがあげられる。
また、吉益東洞の「方証相対説」は一閑斎の治療術をヒントにしたものであるとされている[1]。