松山古墳 (高取町)
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松山古墳 | |
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別名 | 呑谷古墳/松山呑谷古墳 |
所在地 | 奈良県高市郡高取町松山(字石切山) |
位置 | 北緯34度26分31.35秒 東経135度47分34.67秒 / 北緯34.4420417度 東経135.7929639度座標: 北緯34度26分31.35秒 東経135度47分34.67秒 / 北緯34.4420417度 東経135.7929639度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
直径10m 高さ3m |
埋葬施設 |
(推定)横口式石槨 (内部に木棺) |
出土品 | 海獣葡萄鏡・鉄鏡・棺金具・鉄釘 |
築造時期 | 7世紀末 |
史跡 | なし |
地図 |
松山古墳(まつやまこふん)または呑谷古墳(のみだにこふん/のんたにこふん)は、奈良県高市郡高取町松山にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]奈良盆地南縁、竜門山塊北麓の小独立丘陵上の南斜面(標高140メートル付近)に山寄せで築造された小円墳である[1]。1899年(明治32年)に発見・発掘され、多数の副葬品が出土している。これまでに発掘調査は実施されていない。
墳形は円形で、直径10メートル・高さ3メートルを測る[2]。埋葬施設は切石の横口式石槨と推定され、内部に木棺が据えられたと見られる[1]。明治期の発掘では、海獣葡萄鏡・銀象嵌鉄鏡・棺金具・鉄釘などが出土している[2]。特に海獣葡萄鏡の古墳からの出土は珍しく、鉄鏡も全国で出土例が乏しく非常に珍しい品として注目される。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀末頃と推定される[3]。被葬者は明らかでないが、高松塚古墳・束明神古墳・マルコ山古墳などとともに天武天皇朝に関わる人物と推測される[3]。一般に終末期古墳は副葬品が少なく盗掘例も多いが、本古墳では優れた副葬品の内容が判明する点で重要視される古墳になる[4]。
現在では、出土品の大半は東京国立博物館で保管されている。
遺跡歴
[編集]- 1899年(明治32年)、植林のための開梱中に石室の発見・発掘。副葬品出土(出土品の大半を帝室博物館に移送)[4][1]。
- 1906年(明治39年)、高橋健自による簡易報告[1]。
- 1923年(大正12年)、梅原末治による総括的報告[1]。
出土品
[編集]明治期の発掘で出土した副葬品のうち、東京国立博物館所蔵品は次の通り。
- 海獣葡萄鏡 1面
- 銀象嵌鉄鏡 1面
- 金銅製八花形座金具・鐶 8個
- 棺金具。座金具は、直径約6センチメートル・厚さ約2ミリメートルの円板の周囲を八花形に面取り、中央に方孔を穿つ。鐶は、直径約1センチメートルの鐶棒を曲げて直径約6センチメートルの円形とし、足金物で固定する[1]。
- 銀装鉄鋲(鉄釘) 54本
- 棺釘。頭部径1.3-1.45センチメートル、全長約5.5センチメートル。丸い笠形の頭部表面に銀板を貼る[1]。
その他に「柄の金巻の刀」や管玉・陶質土器が出土したというが、詳らかでない[1]。
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金銅製環・座金具
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銀装鉄鋲
関連施設
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 「呑谷古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 河上邦彦「松山古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 河野一隆ら「奈良県松山古墳出土鉄鏡の再検討」『Museum』第683号、東京国立博物館、2019年、7-23頁。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)