松平清方
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄10年1月9日(1697年1月31日) |
死没 | 享保9年1月24日(1724年2月18日) |
官位 | 従五位下靱負佐、内蔵頭 |
藩 | 上野館林藩世嗣 |
氏族 | 越智松平家 |
父母 | 松平清武 |
兄弟 | 養兄弟:武雅 |
妻 | 酒井忠真養女・須和 |
子 | なし |
松平 清方(まつだいら きよかた)は、江戸時代中期の上野国館林藩の世嗣。官位は従五位下、靱負佐、内蔵頭。3代将軍徳川家光の曾孫で甲府藩主・徳川綱重の孫。6代将軍徳川家宣の甥。
略歴
[編集]甲府藩士・越智吉忠(松平清武の初名)の長男として誕生。伯父・綱豊(のち徳川家宣)が将軍家世子となったため、父の吉忠改め清宣(のち清武)も松平姓を与えられて幕臣となる。
その後、宝永4年(1707年)に館林藩主となった。清方も同年、大叔父で5代将軍・徳川綱吉に拝謁した。
伯父・家宣が将軍職を継いだ後の正徳元年(1711年)には叙任されている。
正徳6年(1716年)に7代将軍・徳川家継(清方と家継は父方の従兄弟同士)が死去した時、父・清武は次期将軍候補に挙がったが、高齢かつ他家に養子に出ていることが理由で、支持を得ることができなかった。
享保9年(1724年)に家督を継ぐことなく父に先立ち28歳で死去した。代わって、尾張徳川家支藩の高須藩から武雅が養子に迎えられて嫡子となり、同年に清武が没すると家督を継いだ。清武・清方父子の死により、家光の男系子孫は断絶した。