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松本文三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本 文三郎
人物情報
生誕 (1869-06-16) 1869年6月16日
日本の旗 日本 石川県金沢市
死没 1944年12月18日(1944-12-18)(75歳没)
日本の旗 日本 京都府京都市
出身校 帝国大学
学問
研究分野 仏教学仏教美術インド哲学、インド文化史
研究機関 京都帝国大学立教大学東方文化研究所
学位 文学博士
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松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日明治2年5月7日[1] - 1944年12月18日)は、仏教学者インド哲学インド文化・仏教美術史学者[2]。号は亡洋[3]。京都帝国大学(現・京都大学)名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した[3]

経歴

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1869年、加賀国金沢(現石川県金沢市)生まれ。1893年、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)を卒業。

1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授[4]。1899年、ドイツに留学[3]。同年、文学博士号を取得。

第一高等学校教授を務めたのち、1906年、京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり[2]、同大学インド哲学史教授に就任。

1908年から1915年まで同大学第2代学長を務める[2]。その後も引き続きインド哲学史講座担当教授として教鞭を執る。1919年に文科大学が文学部に改称されると、初代文学部長に就いた[3]。1929年に定年退官[5]、名誉教授。

1919年より帝国学士院会員。1938年には、東方文化研究所の所長に就任するなど、終始して徳望高き学界の重鎮として知られ、卓越した研究活動の組織者でもあった[5]。1944年、気管支カタルのため京都銀閣寺の自宅で逝去した[3]

研究内容・業績

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  • 「日本大蔵経」の編集、インド・中国の仏教遺跡調査にあたった[6][7]
  • 京都国立博物館に収集したコレクションが収められている(京都国立博物館が所蔵する書跡の基盤となった3つの1つ:守屋孝蔵コレクション・上野理一コレクション・松本文三郎コレクション)[8]
  • 花まつり - 言葉の起源とされる、1901年にベルリンで催された「Blumen Fest(ブルーメンフェスト)」の発起人の一人。

受賞・栄典

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著作

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著書

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  • 心理学』敬業社 1897
  • 『印度雑事』六盟館 1903
  • 仏典結集 仏教史論』文明堂 1903
  • 『極楽浄土論』金港堂 1904
  • 『新論理学』金港堂 1904
  • 宗教哲学』丙午出版社 1906
  • 『印度密教弘法大師の真言』六大新報社 1910
  • 弥勒浄土論』丙午出版社 1911 平凡社東洋文庫、2006
  • 金剛経六祖壇経の研究』貝葉書院 1913
  • 『仏典乃研究』丙午出版社 1914
  • 達磨』国民学芸叢書 東亜堂書房 1915
  • 『支那仏教遺物』大鐙閣 1919
  • 『印度の仏教美術』丙午出版社 1920
  • 『仏教芸術とその人物』同文館 1923
  • 真言密教の興るまで』真言宗京都大学 1925
  • 『東洋文化の研究』岩波書店 1926
  • 『仏教史の研究』弘文堂書房 1927
  • 『仏典批評論』弘文堂書房 1927
  • 『仏教史論』弘文堂書房 1929
  • 『達磨の研究』第一書房 1942
  • 『東洋の古代芸術』創元社 1943
  • 『先徳の芳躅』創元社 1944
  • 『仏教史雑考』創元社 1944

脚注

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  1. ^ 『人事興信録 5版』(人事興信所、1918年)ま76頁
  2. ^ a b c 京都国立博物館 『仏教(ぶっきょう)学者のコレクション 松本文三郎(まつもとぶんざぶろう)の旧蔵品(きゅうぞうひん)』 2020年02月04日
  3. ^ a b c d e 東京文化財研究所 『松本文三郎』
  4. ^ 海老澤 有道「明治反動期におけるキリスト教教育の一齣 : 立教学校文学会刊『八紘』紹介を兼ねて」『史苑』第22巻第2号、立教大学文学部、1962年1月、1-19頁。 
  5. ^ a b 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 『松本文三郎』 コトバンク
  6. ^ 20世紀日本人名事典
  7. ^ 日本人名大辞典
  8. ^ https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/shoseki/219/ 仏教学者のコレクション 松本文三郎の旧蔵品(京都国立博物館)
  9. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  10. ^ 『官報』第1330号「叙任及辞令」1917年1月11日。

外部リンク

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