松重美人
松重 美人(まつしげ よしと、男性、1913年1月2日 - 2005年1月16日)は、日本の新聞記者・報道写真家[1]。
1945年8月6日の広島原爆投下当日の市街地の様子を撮影した人物である。
経歴
[編集]広島県呉市生まれで旧制中学校中退[要出典]。1941年に、当時中国新聞社系列の芸備日日新聞に入社し[注釈 1]記者になる。1943年に、系列本体の中国新聞に籍が移る。中国新聞では写真部に所属し、1944年以降は、中国軍管区司令部の報道班員も兼ねた。1945年8月6日、原爆で被爆するが軽傷だったため、当日中に勤務先の新聞社に向かう過程で市内の写真撮影をおこなう。1969年に中国新聞社を定年退職し、その後は証言者として自らの被爆体験を語った。2005年1月16日、急性腎不全のため92歳で死去。
被爆体験
[編集]1945年8月6日、午前8時15分に広島市に原子爆弾が投下される。そのとき松重は翠町(爆心地より南東に約2.7km / 現:南区)の自宅にて被爆した。その後、勤務先の中国新聞社(上流川町)を目指して市中心部に北上を試みる。その途中、午前11時頃に御幸橋西詰にて応急処置を受ける被爆者の様子をマミヤシックスで撮影した。 しかし火災が激しかったため、それ以上の入市を断念し、いったん帰宅、午後2時頃に自宅およびその近辺を撮影した。その後同僚とともに再び新聞社に向かい爆心地に近い紙屋町で被爆した電車の内部や、広島文理大プールを撮ろうと試みたが、あまりにも悲惨な状況だったため撮影を躊躇し断念した。そして再び御幸橋付近に戻り、夕刻には罹災証明書を発行する宇品警察署(現在の広島南警察署)の警察官や、千田町の火災の様子を撮影し、当日は計6枚を撮影した。撮影から1週間後、中国新聞社の疎開先であった安芸郡温品村(現:東区温品)で現像し、露出不足であった6枚目のネガ(千田町の火災)を廃棄、結果として被爆当日の記録写真として5枚が現像され今日に伝えられた。
被爆当日の5枚の写真
[編集]- 1枚目 - 御幸橋西詰にて午前11時過ぎに撮影
- 爆心地より南南東に約2.3km(千田町三丁目 / 現:中区)。宇品警察署管内千田町派出所前に急設された臨時治療所の様子を撮影。建物疎開作業中に被爆した広島女子商業学校・県立第一中学生徒などが避難し、多数が橋の欄干近くにしゃがみ込んでいる。凄惨な光景だったため松重は1枚目を撮影するまでかなり躊躇したという。この写真と2枚目の写真に写る被爆者のうち、坪井直(元被団協代表委員、当時は広島工専学生)やセーラー服を着た女学生ら計9人[注釈 2]の氏名が判明している[2][3]。9人のうち女学生1人は2023年時点で健在であることが分かっている[2]。2枚の写真はNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」(2015年8月6日放送)で詳細に取り上げられ、画像解析により写真に写っている被爆者が閃光熱傷(フラッシュバーン)を起こしていたことなどが明らかとなった。
- 2枚目 - 同上
- 1枚目よりもかなり被爆者に接近して撮影。この時にはファインダーが「涙にぬれていた」という。
- 3枚目 - 翠町の自宅兼理髪店の内部を午後2時頃撮影
- 爆心地から約2.7km。火災は免れたが爆風により店は大破し内部は散乱。奥に松重夫人が立っている。
- 5枚目 - 皆実町三丁目交差点付近を午後5時頃撮影
- 爆心地より南南東に2.4km(現:南区皆実町六丁目)。上記御幸橋の東詰で広電宇品線と皆実線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)であり、宇品警察署の巡査が罹災証明書の発行にあたっている[注釈 3]。
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千田町3丁目御幸橋西詰にて (1枚目)
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千田町3丁目御幸橋西詰にて (2枚目)
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松重美人の住居兼理髪店の内部
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松重美人の住居の窓から見た広島市翠町
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宇品線曲がり角付近 (1945年8月6日午後5時頃撮影)
8月6日当日の地上における写真は、他に被爆直後に爆心地からやや離れた地点(陸軍兵器補給廠、水分峡など)から撮られたキノコ雲や、郊外の安佐郡安古市町(現在の安佐南区)にてトラックに乗せられ避難する被爆者の様子(ただし焦点がぼけている)を撮ったものが確認されているが、爆心地から比較的近い市街地で、生々しい被災の様子を撮った歴史的写真は、この松重のものしか残されていない。現在、御幸橋西詰南側(この付近にかつて千田町派出所が存在した)に松重の被災写真撮影を記念するモニュメントが設置されており、一枚目の写真を引き延ばしたものが使用されている(冒頭の画像および上記左端の写真を参照)。
なお、松重は1990年代に写真の著作権を巡る民事訴訟で訴えられたが、裁判は原告の請求棄却で確定している[注釈 4]。
写真の公表・出版
[編集]第二次世界大戦後、松重による御幸橋の被災写真は、1946年(昭和21年)7月6日付の『夕刊ひろしま』(中国新聞の系列紙)紙上で、日本国内では初めて御幸橋での2枚の写真が掲載。1952年(昭和22年)にはアメリカ軍に渡ったグラフ誌『ライフ』第33巻第13号(1952年9月29日)に初めて掲載された[4][5]。
松重は定年退職後の1980年8月、同じ被爆記者である中村敏(被爆当時、同盟通信記者 / その後共同通信)および大佐古一郎(被爆当時、中国新聞記者)とともに「昭和20年8月7日・8日付」のガリ版印刷『廣島特報』を発行、当時の視点から「被爆後2日間の報道の空白」を埋める試みを行った(この試みは中国新聞労働組合による1995年8月6日刊の『ヒロシマ新聞』に継承されている)。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 同年9月に呉新聞と合併し、呉新聞になる。
- ^ 9人のうち坪井ら2人は、欄干にもたれかかる同一の人物について自分を捉えた写真だと説明している。
- ^ 松重自身の回想によると宇品署の藤田徳夫巡査である。
- ^ 原告は当時陸軍大尉のS氏。写真の著作権の確認と慰謝料の支払、オリジナル・ネガフィルムの引き渡しを求める民事訴訟を起こした。1997年に広島地方裁判所は結審し、原告側の主張は自己の証言のみであり、原告の主張では使用カメラはコダック・レチナ(35mmフィルムを使用し24×36mm判)であるが訴訟対象のネガフィルム(120フィルムを使用し6×6cm判)と異なることなどから、原告の請求は棄却された。翌年の広島高等裁判所の控訴審も1審の判断を支持して棄却し、判決が確定した(広島地裁判決文, 広島高裁判決文)
出典
[編集]- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『松重美人』 - コトバンク
- ^ a b 西本雅実「1945年8月6日松重美人撮影写真を読み取る~『広島原爆の撮影者』とともに~」『広島平和記念資料館資料調査研究会 研究報告』第19号、広島平和記念資料館資料調査研究会、2023年11月、11-24頁。
- ^ “Kさん死去 「8・6」写真に写る 86歳”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2019年1月25日閲覧。記事名に女性の本名が使用されているため、この部分をイニシャル表記に変更した。
- ^ "When Atom Bomb Struck – Uncensored". Life (英語). Vol. 33, no. 13. 29 September 1952. pp. 19–20.
- ^ “伝えるヒロシマ ⑦ 原爆記録写真 務め…葛藤のシャッター”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター (2014年8月5日). 2017年9月13日閲覧。
関連書籍
[編集]- 松重美人 『なみだのファインダー:広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』(柏原知子:監修) ぎょうせい、2003年 ISBN 4324071144
- NHK出版(編) 『ヒロシマはどう記録されたか:NHKと中国新聞の原爆報道』 NHK出版、2003年 ISBN 4140808047
- 徳山喜雄 『原爆と写真』御茶の水書房、2005年 ISBN 4275003810
- 『photographers' gallery press no.12』photographers' gallery、2014年。ISBN 9784907865030。
関連項目
[編集]- 大佐古一郎 - 中国新聞の同僚記者。
- 岸田貢宜 - 8月7日、被爆翌日の広島の被害写真を撮影した写真館主。
- 山端庸介 - 8月10日、被爆翌日の長崎の被害写真を撮影した写真家。
- 石川光陽 - 東京大空襲の被害写真を撮影した警察官。
外部リンク
[編集]- ヒロシマの記録 原爆・平和写真データベース化 - ウェイバックマシン(2004年4月10日アーカイブ分) (中国新聞) - 松重の5枚の写真あり
- Testimony of Yoshito Matsushige
- His obituary
- ヒロシマ新聞
- 被爆者証言ビデオ - 広島平和記念資料館データベース(松重本人による原爆時の証言ビデオ)