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林忠英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
林 忠英
林忠英像(個人蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和2年4月29日1765年6月17日
死没 弘化2年5月8日1845年6月12日
改名 藤助(幼名)、忠勝(別名)→忠英
墓所 東京都港区愛宕青松寺
官位 従五位下、出羽守、筑前守、肥後
幕府 江戸幕府 若年寄、ほか
主君 徳川家治家斉
上総国貝淵藩
氏族 林氏
父母 父:林忠篤
母:植村恒朝の娘(水野勝前の養女)
兄弟 忠英奥山良恭
正室:神保茂清の娘
忠起忠旭忠交、娘(中野晴茂養女)
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林 忠英(はやし ただふさ)は、江戸時代後期の旗本譜代大名将軍徳川家斉の寵臣として若年寄にすすみ、上総貝淵藩の初代藩主となった。

生涯

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明和2年(1765年)、旗本・林忠篤(3000石)の長男として生まれる。天明元年(1781年)4月、小納戸。天明7年(1787年)に第11代将軍に就任した家斉の寵愛を受けて小姓役を務めた。寛政元年(1789年)、従五位下出羽守に叙任。

寛政8年(1796年)7月3日に家督を相続する。寛政9年(1797年)2月に小姓頭取、享和元年(1801年)には小姓番組頭格・御用取次見習、文化元年(1804年)に御側御用取次など、数々の幕府要職を歴任した。文化10年(1813年)12月に1000石、さらに文政5年(1822年)3月には3000石を加増される。

文政8年(1825年)4月には若年寄、勝手掛・表大奥に任じられ、新たに3000石を加増されて計1万石を領し大名に列した。天保5年(1834年)12月に3000石、天保10年(1839年)3月には江戸城修築などの功により5000石を加増され、計1万8000石を領する。しかし、天保12年(1841年)1月に将軍家斉が死去すると、第12代将軍家慶老中水野忠邦の粛清を受け、4月17日に8000石召し上げ、さらに若年寄を罷免されて失脚した。同年7月には、老齢を理由に強制隠居となり、家督を次男の忠旭に譲った。

弘化2年(1845年)5月8日に死去した。享年81。

系譜

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父母

正室

子女

関連項目

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先代
林氏 貝淵藩 初代藩主
1825年 - 1841年
次代
林忠旭