林賢徳
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林 賢徳(はやし けんとく、1838年9月24日(天保9年8月6日[1][注 1]) - 1914年(大正3年)6月13日[1])は、幕末の加賀藩士。明治時代の鉄道実業家。号は活堂[2]。位階および勲等は従六位・勲六等。
経歴
[編集]加賀金沢藩士[1]の林市之丞の長男として生まれた[2]。維新の際、海軍を志し江戸や横浜に遊学する[2]。
民政局出仕を経て、海軍士官兵学校教官、海軍秘書官などを歴任し[2]、1875年(明治8年)東京市麻布区に士族のための授産施設「農学舎」を設置する[1]。
1876年(明治9年)陸運交通の不便および私設鉄道敷設の急務を提唱し1881年(明治14年)日本鉄道会社を興した[2]。東北本線、高崎線などを開通させ、1906年(明治39年)国有化されるまで重役を務めた[1]。ほか、七尾鉄道取締役、岩城鉄道監査役などを歴任した。墓所は多磨霊園にある。
栄典
[編集]- 位階
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録 初版』133頁では9月8日生。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。