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柳本治頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柳本治頼
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 享禄4年(1531年
別名 鑓蔵主
官位 若狭守
主君 柳本賢治
氏族 能勢氏柳本氏
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柳本 治頼(やなぎもと/やないもと はるより)は、戦国時代武将野勢若狭守鑓蔵主とも呼ばれた[1]

概要

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治頼は本来は山城国西岡今里の能勢氏の出身であり、柳本賢治の家臣として活動していた。治頼が柳本姓を名乗ったのは、賢治に治頼の家格を上昇させるがであった。ただし、能勢氏嫡流の三郎左衛門尉家は細川高国の被官として活動していることから、治頼は庶流出身であったと考えられる。治頼の名前は、柳本賢治の偏諱「治」と能勢氏の通字「頼」の組み合わせである[1]

享禄元年(1528年)7月8日や同年10月17日、翌年3月20日には柳本若狭守治頼の名前で署名している。享禄4年(1531年)に落馬により死去している。治頼は出家していたのにもかかわらず鑓の使い手として名を馳せたことから、鑓蔵主と呼ばれており、人としての評価はあまり高くなく、その因果のために落馬したと評価されている。逆に、賢治に登用されたのはその僧兵としての武勇によってであると考えられる[1]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c 馬部隆弘「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)

参考文献

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  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6 
    • 「「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」」 - 初出:『ヒストリア』第247号、2014年。 

関連項目

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