誹風柳多留
(柳樽から転送)
誹風柳多留(はいふうやなぎだる)とは、江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集である。単に「柳多留」と呼ぶこともある。「柳樽」とも。呉陵軒可有編、花屋久次郎版[1]。明和2年から天保11年(1765–1840)にかけて167編が刊行された[1][2]。
歴史[編集]
初編は1765年(明和2年)7月、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が編者となって刊行された[1][3]。点者の柄井川柳が前句附興行の「万句合」で選んだ句を掲載している[3]。前句を省いて付句のみを掲載するのは、当時としては異例だった[3]。2編以後は毎年1冊刊行され、31編以降は年10冊程度刊行された[3]。編者の可有が22編で死去した後、23編は如猩編、24編は花洛庵一口編となり、それ以降は月並会の作者の寄せ集め本となった[1][3]。
初期の作品は文芸的価値が評価され、中期・後期の作品も風俗資料として評価される[1]。柄井川柳が編纂にたずさわった24編までが、特に評価が高い[要出典]。評者や序文の筆者には、柳亭種彦、十返舎一九、宿屋飯盛、葛飾北斎らが名を連ねている。寛政の改革や天保の改革では幕府の干渉を受け、過去の内容を修正した改刷本が出版された[1][3]。
前句附興行は、柄井川柳の号である「川柳」の名が宗家として代々受け継がれたことから、「川柳」と呼ばれるようになり、『誹風柳多留』が刊行されていた期間の川柳を、特に「古川柳」と呼ぶことが多い。[要出典]
代表的な句[編集]
- 本降りになって出ていく雨宿り
- これ小判たった一晩ゐてくれろ
- かみなりをまねて腹がけやっとさせ
- 寝ていても団扇のうごく親心
- 役人の子はにぎにぎをよく覚え
刊本[編集]
- 『誹風柳多留』山沢英雄校訂 全5冊 岩波文庫 1950-56
- 『誹風柳多留拾遺』山沢英雄校訂 岩波文庫 1966-67
- 『誹風柳多留』柳多留刊行会 1932
- 『誹風柳多留全集』柳多留全集刊行社 1933
- 『日本古典文学大系 第57 誹風柳多留(抄),誹風柳多留拾遺(抄)』浜田義一郎校注 岩波書店 1958
- 『誹風柳多留全集』全12巻索引 岡田甫校訂 三省堂 1976-84
- 『誹風柳多留 新潮日本古典集成』宮田正信校注 新潮社 1984
- 『誹風柳多留』社会思想社 現代教養文庫
- 初篇 浜田義一郎校注 1985
- 2篇 鈴木倉之助校注 1985
- 3篇 岩田秀行校注 1985
- 4篇 八木敬一校注
- 5篇 佐藤要人校注 1986
- 6篇 粕谷宏紀校注 1987
- 7篇 西原亮校注 1987
- 8篇 室山源三郎校注 1987
- 9篇 八木敬一校注 1987
- 10篇 佐藤要人校注 1988
- 『柳多留名句選』山沢英雄選 粕谷宏紀校注 1995 岩波文庫
関連書籍[編集]
- 西原柳雨『誹風柳多留講義』岩波書店 1930
- 『柳多留輪講 初篇』編集 大村沙華 至文堂 1972
- 相田忠朗『川柳江戸風俗抄 柳多留・初篇の世界』札幌川柳社 1974
- 吉田精一、浜田義一郎編『誹風柳多留拾遺輪講』岩波書店 1977
- 『岩橋邦枝の誹風柳多留 わたしの古典』集英社 1987 のち文庫
- 蕣露庵主人『江戸破礼句・梅の宝匣 後期柳多留の艶句を愉しむ』三樹書房 1996
- 蕣露庵主人『江戸破礼句・櫻の寶匣 後期柳多留の艶句を愉しむ・その2』三樹書房 1997
英訳書[編集]
- 『英訳江戸川柳 誹風柳多留』撫尾清明訳 アラン・クロケット監修 葉文館出版 1998