柳沢聴信
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦4年(1754年) |
死没 | 天保3年7月27日(1832年8月22日) |
別名 | 左右吉、のち八郎右衛門、佐渡守(通称) |
墓所 | 東京都新宿区市谷河田町の正覚山月桂寺 |
官位 | 従五位下 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 柳沢氏 |
父母 | 柳沢信門 |
妻 | 山中廣幸娘 |
子 | 主尹ら |
柳沢 聴信(やなぎさわ あきのぶ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。通称は左右吉、のち八郎右衛門、佐渡守。官位は従五位下。
旗本柳沢信門の長男。母は不詳。子に柳沢主尹らがいる。妻は山中廣幸の娘。聴信の死後、長男の主尹が家督を継いだ。
年表
[編集]※日付は旧暦
- 明和7年(1770年)7月4日 - 父信門の家督を継ぐ。小普請入り。
- 天明1年(1781年)10月9日 - 大番の番士となる。
- 寛政5年(1793年)11月6日 - 出向して書替奉行(切米手形改)を務める。
- 寛政8年(1796年)10月17日 - 小普請組支配組頭となる。
- 文化2年(1805年)3月20日 - 納戸頭となる。
- 文化5年(1808年)2月17日 - 佐渡奉行となる。
- 文化7年(1810年)12月24日 - 普請奉行となる。
- 文化11年(1814年)12月28日 - 田安徳川家家老となる。
- 文政8年(1825年)4月28日 - 留守居となる。鉄砲玉薬御用掛を分掌。
- 文政10年(1827年)12月18日 - 将軍徳川家斉の二十一女・溶姫が加賀藩主前田斉泰へ引移り(輿入れ)の際に尽力したとして巻物を拝領する[1]。
- 天保3年(1832年)7月27日 - 留守居在職中のまま死去。享年79。月桂寺に葬られる。
碑
[編集]- 瘞鶴碑(えいかくひ) - 文化6年(1809年)に、当時佐渡奉行であった聴信が真光寺(現在の新潟県佐渡市真光寺に存在した寺)の境内に建立した鶴を埋めた石碑。現在も同寺の跡地に建立された金北山神社里社の境内に存在する。なお、瘞鶴碑を含めた真光寺跡と金北山、成就院が「金北山・成就院・真光寺跡」として佐渡市指定文化財・記念物「史跡」となっている。