柳生宗春
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶安2年(1649年) |
死没 | 延宝3年2月4日(1675年2月28日) |
改名 | 五郎兵衛(幼名)、宗春 |
別名 | 内膳、心宗、大膳(通称) |
戒名 | 春洞院殿雲嶽宗浮大居子[1] |
墓所 | 奈良県奈良市柳生町の芳徳寺、広徳寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 大和柳生藩世嗣 |
氏族 | 柳生氏 |
父母 | 柳生宗冬、京極高通娘 |
兄弟 | 宗春、宗在、小出尹重室、朽木則綱正室、曽我近祐室 |
妻 | 九鬼久隆娘 |
子 | 俊方、九鬼副隆 |
柳生 宗春(やぎゅう むねはる)は、江戸時代前期の大和国柳生藩の世嗣。初名は五郎兵衛、通称は大膳[2]、内膳、心宗[1]。
略歴
[編集]慶安2年(1649年)柳生家当主・柳生宗冬と京極高通の娘の長男として江戸に生まれる[1]。柳生家は代々徳川将軍家の剣術指南役を務める家系として知られ、宗春も4代将軍徳川家綱の指南役である父・宗冬より家伝の新陰流を学んだ。
明暦2年(1656年)初めて家綱に拝謁し[2]、寛文5年(1665年)正月の稽古始めで父と共に家綱の稽古相手を務めると、以後家綱の稽古には常に相伴するようになった[3]。
柳生家累代の記録『玉栄拾遺』によるとその人柄は「性質優美にして若くして人の鑑[注 1]」と賞されたといい、新陰流の術に達したほか、和歌も好んだとされる。やがて父・宗冬は芝新堀の別邸に移り、宗春は虎ノ門の本邸にあって、共に門人を分け合って新陰流を教授するようになった。宗春が指導する虎ノ門には多くの門生が集い、長者として慕われたというが、延宝3年(1675年)1月13日に突如疱瘡を患い、同年2月4日に家督相続を前にして27歳で死去した[1]。
遺体はその日の内に江戸の広徳寺に埋葬され[1]、後に柳生家の菩提寺である柳生庄(奈良市柳生町)芳徳寺にも墓所が作られた。
将来を嘱望された嫡男の死は宗冬に衝撃を与え、宗春の死から3か月後の延宝3年(1675年)4月に宗冬は病に倒れ、同年9月に死去した。柳生家の家督は宗春の弟・宗在が継いだが、宗在も36歳で早世したため、その跡を当時16歳に成長していた宗春の子・俊方が継いだ[4]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 立派で見習うべきところの多い人物の意味