柴山昌生
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柴山 昌生(しばやま まさき、1884年(明治17年)8月13日[1] - 1952年(昭和27年)3月15日[1][2])は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍少将。貴族院男爵議員。
経歴
[編集]東京府出身[1]。海軍士官・柴山矢八の二男として生まれる[3][4]。1907年11月、海軍兵学校(35期)を卒業し、1908年12月、海軍少尉任官[1]。
以後、海軍砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科学生、砲術学校特修科学生、海軍大学校乙種学生、砲術学校高等科学生として研鑽を積んだ[1]。1919年12月、海軍少佐に昇進し砲術学校教官兼分隊長に就任。以後、霧島砲術長、陸奥砲術長を務め、父の死去に伴い1924年2月20日、男爵を襲爵[5]。さらに、砲術学校教官、金剛副長、神威特務艦長などを歴任し、1928年10月、海軍大佐に昇進[1][6]。以後、第一遣外艦隊司令部附・上海陸戦隊指揮官、赤城艦長、横須賀鎮守府附、横須賀海兵団長、兼日進艦長などを経て、1934年11月、海軍少将に昇進し横須賀人事部長兼横須賀鎮守府人事長に就任した[1][6][7]。以後、軍令部出仕を経て、1936年12月15日に待命、同月22日予備役編入となった[1]。
1937年9月25日、貴族院議員補欠選挙で男爵議員に選出され[8]、公正会に所属して活動[9]。海軍航空本部外航空指導事務嘱託、内閣委員・興亜院勤務、大東亜省委員、厚生省委員などを務めた[1]。1946年4月17日に貴族院議員を辞職した[9][10]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[11]。
墓所は多磨霊園(10-1-13-37)。
親族
[編集]栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第10巻、124頁。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、724頁では3月17日没。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、724頁。
- ^ 『人事興信録』第12版 上、シ49頁。
- ^ 『官報』第3446号、大正13年2月21日。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』132頁。
- ^ 『日本海軍将官辞典』191頁。
- ^ 『官報』第3233号、昭和12年10月11日。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。
- ^ 『官報』第5796号、昭和21年5月14日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
- ^ 『官報』第5148号「叙任及辞令」1944年3月14日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録』第12版 上、1939年。
日本の爵位 | ||
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先代 柴山矢八 |
男爵 柴山(矢八)家第2代 1924年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |